先週末、クラウドファンディングでの支援がぱったりと止まってしまいました。「頭打ちかなぁ・・・」と、覚悟はしていたものの、少々落ち込んでいました。そんな折、元の平和資料館で友人を介して出会うことができたSさんからお手紙が届きました。90才になるSさんは、子どもの頃からずっと日記をつけられていて、資料館に来られた時に、「小学校5年生の時の日記」を持ってきて下さいました。Sさん小学5年生の時の日記戦時中の子どもの生活の様子が手に取るように分かる貴重な「資料」です。今と変わらない子どもらしい様子を表す日記もあるのですが、このページには驚きました。周りの大人が子どもを戦争に駆り立てた事実・・・絶対にこのようなことを繰り返してはいけない!Sさんの「新資料館、6月に出来るそうで期待しています。喜んで参ります。」の言葉を何度も繰り返し読み、自分自身に元気を注入!!「がんばります!!」そう思っていると、昨日は支援者が!!いつも「いくつの方かなぁ?」と、想像しながら「応援メッセージ」を拝読。お礼のメールを送るのですが、昨日は、「恐らく年長者」と思わせる、メッセージ。紹介させてください。失うばかりの争いに決して希望は生まれません。世界の平和はひとりひとりの心の平和から。先祖が残してくれた命の絆に感謝し、今ある命を大事に感謝しあって反省しあって支え合って笑顔で元気に暮らせる世界が子孫にも続くことを願い祈っています。「命の絆」「感謝」「反省」「世界」という言葉が私の心に刻まれました。がんばります!!
今週は、たくさんの出会いがありました。●大工さんとの出会い知人に、リフォーム(壁を作る・部屋をつなぐ・多目的トイレ設置・通路に屋根を作る)をしてくださる業者さんをお願いしていたところ、すてきな大工さんを紹介してくださいました。70代のその方は、人柄が、そのまま顔の表情やシワに現れている、そんな方でした。こちらの意図をしっかりと受け止めて、アイデアをくださるので、とてもありがたかったです。●市民センターの館長さんとの出会い友人に、「若松の空襲被害の証言」を集める話をしていたところ、「卓球仲間に、90歳の方がおられるから聞いてみるね!」と。ちょうど、大工さんと話をした後、すぐにその友人から電話が!「修多羅市民センターの館長さんが、お話を聴いてくれるって!」と。馳せ参じました。元小学校の教員をされていた方で、よく噂は聞いていました。地域の年長者の方のことをよくご存知で、「声をかけてみましょう」という話に。また、みんなが集う場として、市民センターを貸していただけそうです。感謝!●空襲を見た方との出会い8月8日の八幡大空襲の日に、藤ノ木や東二島辺りにも、焼夷弾が落とされ、被害者が出ています。その時の煙を古前方面から見たという92歳の方にお話を聴きました。元小学校の校長先生で、子どもが好き。お話が好き。戦中戦後のことをご自分でまとめ、冊子を作られていました。こちらは、「聞き書き」に協力して頂けそうです。空襲の証言を集める活動について、その趣旨や活動計画をお話すると、嬉しそうに聴いてくださいました。「戦争のことをちゃんと語り継ぎで行くことは、平和のために大切なことです。」と。●浄化槽の会社の方と近所の小野さんの友人との出会い こちらも、大変親切。「ボランティア、私もしていますよ。」と、海外の方々のためにされていることを教えてくださいました。御年78歳!!話していると、もう一人来客が。同じ蜑住にお住まいのIさん。小野さんに話は聞いていました。「親戚が区長をしているから、今度いっしょに行こう!」と、おっしゃってくださいました。駐車場をどうするか、悩んでいるところ。力になっていただければ・・・。とにかく心強いです!!その後、日が暮れてすっかり暗くなった18時半ごろ。北九州市立大学の学生さんが、資料を借りに来ました。渋滞に巻き込まれて遅くなったらしいです。大変だったね・・・車が溝に落ちないように誘導し、帰りは、舗装された道まで私が運転して(笑)、(まだ、資料室の周りは危険です!!)無事に帰路につきました。帰りは真っ暗に。ちょうど空には三日月が・・・おつかれさん。10月23日(日)に、こども図書館で行われるイベントで使うそうです。子ども達に、戦争の怖さ、悲惨さをしっかりと伝えてほしいです。応援しています。
昨日は、北九州大学の学生さんに貸す資料の準備をしました。(10月に「子ども図書館」で、子ども向けの「戦争を伝えるイベント」をするらしいです。)貸し出す物の中には入ってないのですが、「補充兵手帳」が出てきました。今、ロシアで起きている予備役兵の徴集。拒否する人の国外脱出や国民のデモの様子が思い浮かびました。日本が戦争をしていた80年ほど前も、同じことがあっていたそうです。兵役を免れるために、わざと骨折したり、醬油を一升飲んだり、山に逃げたり、・・・80年経とうが、ちがう国であろうが、戦争になると、何も変わらないということを証明しています。命よりも「義」を重んじる見つけた補充兵手帳。中を開けると、明治と昭和、二つの 「勅諭」(天皇の言葉)が。軍人の心得が細かく書かれています。上下関係を守ることが、国のためになる。日本の軍人は、昔から勇ましく戦うものだ。国のために命を捨てるのは当たり前。・・・と。戦争で起きた事実をきちんと知り、同じことが二度と起きないようにどう行動すべきか考える場所にしなければ!どんな資料室にするか、あらためて、気持ちを強くした一日になりました。
昨日(9月24日)。「北九州平和資料館」があったころから、応援してくださっていたYさんが、新しい資料室にやってきました。Yさんとの出会いは2年前。「小倉の中央図書館で『若松に平和資料館がありますよ。』と紹介してもらいました。」と、やって来たのが始まりでした。Yさんは、広島で原爆の継承活動を始めたことをきっかけに、全国の平和のために活動している方々と知り合いになったそうです。今は、『つなぐ』ことを自分の役割として、持病と闘いながら、活動しています。(今回のCFの宣伝も、かなりの力を貸してくださいました。感謝!)そのフットワークの軽さには頭が下がります。昨日は、小倉南区にある自宅から、JRとバスを利用して、はるばる来てくださったのでした。9時半ごろ来室。しばらく、外で、立ち話。その後、リフォームした学習室で歓談。近況を話していました。と、Yさんが「誰か来られてるよ。」と。窓から外を覗くと女性が!「寄付をしたくて、探してきました。」と、私が出した支援のお願いのはがきの住所を見て、JAかっぱの里から歩いて見えたのでした。学習室に招き入れ、三人でいろいろな話をしました。話から、来られた方が以前から「北九州平和資料館」の語り部の会などにも参加してくださっていたことが分かりました。わざわざ探してきてくださったことに、改めて感激しました。お二人とも、若松に馴染みが深く、八幡出身の私より多くのことをご存知で、大変勉強になりました。特に、これから若松の空襲被害についての聞き書きを始める立場としては、有難い情報でした。気付けば、Yさんの帰るバスの時刻に近付いています。(2時間も経っていました。)バタバタと帰り支度を。帰り際、若松の戦跡に一緒に行くことを約束しました。また、「昼間なら、手伝うことができますよ。」との、うれしいお言葉も!「トイレが使えるようになったら、必ず連絡します。」そう言って、別れました。(笑)10月に入ったら、井戸の工事をしてもらいます。トイレは浄化槽がついてから。・・・「水」のありがたみ、上下水道のありがたみをひしひしと感じています。「早く、今日のように、集える場所になるといいなぁ。」一歩一歩あきらめずにクリアしていくしかないです。がんばるぞ!!
昨日は、大変うれしいことがありました。「ずっと心に引っかかっていた方」のことを知っているという方と電話でお話することができたのです。「ずっと心に引っかかっていた方」・・・私が小学校の教員をしていたころ。「人権教育」の担当になり、地域の戦争戦時体験者を学校にお呼びして子ども達にお話をしていただく時間をつくっていました。グループごとに話していただいていたので、それだけの年長者の方がいらっしゃったということです。記録を見ると、今から18年前のことです。その時にお話してくださった、当時101歳だった坂口さんのことが心に引っかかっていたのでした。学級通信より命を懸けて子ども達にご自分の経験(藤ノ木での空襲)をお話してくださった坂口さん。『遺書』といっしょに、近所の子どもの命を奪った『焼夷弾』を寄贈してくださったのを覚えています。当時の学校は、大変忙しく、次々と行事があり、ゆっくり振り返るようなことがないまま、「次」に進んでいく感じ。まさに「心を亡くす」ことのないようにと、意識して過ごしていたつもりなのですが・・・退職してゆっくりと振り返っていて、坂口さんの寄贈してくださった『焼夷弾』は今、どうなっているだろう・・・と。不覚にもすっかり忘れていたのでした。現在、その学校に赴任している方に尋ねてみたところ、「わからない。」と返ってきました。いつか伺って、探させてもらおう。と思いながら、今に至っていました。若松の戦争の証言を集めようと準備をする中で、友人のつてでOさん(92歳)と知り合えました。お住まいが藤ノ木に近いので、「もしや、坂口さんのことを・・・」と心の中で思いながら電話をしました。「坂口さん、知っていますよ。107歳まで生きられましたよ。私は、102歳の時まで交流がありました。」ゾワッとしました。来週、Oさんとお会いしてお話を伺う約束をすることができました。坂口さんの伝えたかった思い、平和資料室でしっかりと伝えていけるようにしたいと思います。