「北九州平和資料館」閉館…「戦争」を知り、「平和」を感じ、考える場所を残したい

北九州市若松区にある「北九州平和資料館」は、戦時遺品などの展示物を手に取って見られる私設資料館。戦争の加害者にも被害者にもならないようにと、両面からの展示をしている。そんな資料館の閉館決定後、ウクライナで戦争が始まった。同時に軍備増強に向かう国の動き…。戦争の真実を知り、考える場所を残さなければ!

現在の支援総額

3,037,500

75%

目標金額は4,000,000円

支援者数

204

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2022/09/01に募集を開始し、 204人の支援により 3,037,500円の資金を集め、 2022/10/31に募集を終了しました

「北九州平和資料館」閉館…「戦争」を知り、「平和」を感じ、考える場所を残したい

現在の支援総額

3,037,500

75%達成

終了

目標金額4,000,000

支援者数204

このプロジェクトは、2022/09/01に募集を開始し、 204人の支援により 3,037,500円の資金を集め、 2022/10/31に募集を終了しました

北九州市若松区にある「北九州平和資料館」は、戦時遺品などの展示物を手に取って見られる私設資料館。戦争の加害者にも被害者にもならないようにと、両面からの展示をしている。そんな資料館の閉館決定後、ウクライナで戦争が始まった。同時に軍備増強に向かう国の動き…。戦争の真実を知り、考える場所を残さなければ!

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11月19日(土)・20日(日)と、小倉北区の清水市民センターの文化祭「平和を祈って」で、平和資料室の資料を展示させていただきました。館長さんからは、「北九州平和資料館」が閉館する前の7月だったか、「文化祭で展示したいので、資料を貸してもらえないか」と、連絡をいただいていました。館長さん自身、戦争のことを知ろうと、できるだけいろいろな所に足を運び、学んでいる最中だと、お話してくださいました。「平和を守りたい」「もっと多くの人に知って、考えてもらいたい」という強い思いを感じました。「多くの方に見てもらえるのなら、喜んで! 私が運ぶのでご心配なく!!」しかしながら、箱にしまわれている戦時資料。〇〇は、どこにしまったっけ?説明はどこに入れたんやったっけ?と、探すのが大変!!閉館時。こんなことにならないようにと、計画的にしまう準備をしていたのですが、次々に資料が出てきて、それどころではなくなったことを思い出します。「仕方ない!整理するつもりでやろう!!」狭い部屋なので、引っ張り出すのも大変でしたが、思い切ってやってよかったです。だいぶ分かりやすくなりました。また、新しく加えたい説明などもはっきりとしてきました。 写真を撮り忘れて帰ってしまった私に、館長さんが、わざわざ写真を送ってくださいました。「200人越えの参加で、来られた方は皆さん、展示を見られていました!!」と、感激のお電話もいただきました。前よりもきっと、平和を願う人々の思いが強く、大きくなったと信じています。


11月16日(水)。午前中に井戸を掘ってくださった業者の方が来てくださって、蛇口から水が出ました!「当たり前ではない、大事な水」を実感。1週間ほど水を出して、その後、水質検査をするそうです。さて。この日の午後は、平尾台にある「北九州子どもの村中学校」の3年生5人が初来室。「北九州平和資料館(閉館)」に4月に来館したことが始まり。その後、自分達で「戦争と平和」をテーマに1年間通して学習をすることを決め、八幡空襲の体験者からお話を聞いたり、長崎や鹿児島、熊本にも行っていろいろな戦争関連施設を巡ったりと、自分たちがしたいこと、行きたい所を決めて、学習を重ねて来たそうです。先週は、小学校の上学年にウクライナとロシアのことを発表して伝えたとか。その間、学習したことをまとめた本を届けてくれたり、閉館の時には手伝いにも来てくれたりと、時々連絡を取り合っていたこともあり、私が『若松の空襲の証言集め』をしようと考えた時に、「こんなことをしようと思ってる」とだけ、伝えておきました。間もなく電話がありました。「私たちも参加したいです。」と。 うれしかったです!普通なら、「受験、受験」とピリピリしているイメージの中学3年生が、戦争を主体的に学び、「平和な世界にするにはどうしたらよいのか」と、考えている姿に、未来への希望を感じ、俄然やる気が湧いてきました。それから2ヶ月。『証言者』を探し続けました。が、話していただける方が思うように見つかりませんでした。でも、動いたことで出会いがあり、また、新しい資料室に展示したいことが見つかりました。結果、『若松の空襲証言』から『若松に関する証言』に内容を広げ、聞いて記録することにしました。その活動の第1回目を行ったというわけです。1回目は、私から子ども達への質問攻め?!どんなことを学び、どんなことを考えるようになったのかを教えてもらいました。(思い出したり、考えたりしたことを紙に書いて、貼ってもらいました。↑)驚いたことは、テーマを決めて学び始めた4月時点で、ほとんど戦争のことを知らなかったということ。たった6ヶ月で、こんなにもたくさんのことを学び(知り)、その上で戦争のこと、平和のこと、人間のこと、自分自身のこと、・・・多くを考えています。↓子ども達が何を知り、そこから何を考えたのかを知ることは、新しい資料室の展示内容を考える上で、大変参考になりました。どういう風に形として残すのかは、中学生と相談しながらやっていこうと思っています。楽しみです!来週は、「聴き取り」の練習を「大人」相手にやってみる予定です。※ミーティング終了後、焼き芋を食べました!(^^)!※以前、「活動報告」に「『聴き取り』の手伝いしてくださる方はいませんか?」と呼び掛けたところ、数名の方が「手伝いますよ。」とお返事を下さいました。ありがとうございます。申し訳ないのですが、中学生は卒業まで時間がないので、先に活動させていただきます。その後、追って、連絡させていただきます。よろしくお願いします。


リターンの準備
2022/11/12 10:24

昨日の活動報告に間違いがありました。玉井×正雄➡玉井〇政雄です。大変申し訳ありませんでした。さて。今日は、リターンの準備について少しお伝えします。小学校教員として在職中、「お勉強」よりも子ども達と楽しいことを考えることが大好きでした。その調子で、クラウドファンディングをすると決めた時に、「リターン」にはまってしまいました。考え出したら、どんどんアイデアが膨らんで…「何のためのクラウドファンディングなんだ!」とならないように、考えたことを「お金」に換算していき、「物品」としては●えんぴつ●付箋●一筆箋●ポストカード●額入り版画●学習会参加券●戦跡ガイドブックとなりました。この中で、業者に注文して新しく作るものが●えんぴつ●付箋●一筆箋です。そのデザインは、絵の得意な連れ合いに頼むことに。だいぶ頑張ってくれて、ようやく業者に発注をかけることができました。まず、鉛筆二種類。「笑顔のティコ」と「戦うティコ」。小さすぎて、ティコの表情が分からなくなると、苦戦していました。次に付箋。(パソコン画面を撮ったもの)かわいくできました!(笑)そして、一筆箋。多色刷にすると値段が大きく上がるので、単色です。大変苦労していました(笑)。ちなみに、入れている言葉は、私の願いです。「Love and wisdom,not weapons!」(武器ではなく、愛と英知を)ついでに、「TICO」のこともよかったら知ってほしいです。私が必死で立ち上げた「北九州平和資料館」のホームページ。検索に早めにヒットするようにと、必死でブログを更新していた去年の5月のものです。よかったら知っていただけると嬉しいです。↓ https://kitakyushu-heiwa.com/%e5%85%b5%e5%a3%ab%e3%81%ae%e5%a6%96%e7%b2%be%ef%bd%9etico%ef%bc%88%e3%83%86%e3%82%a3%e3%82%b3%ef%bc%89/exhibition/https://kitakyushu-heiwa.com/ticos-name/exhibition/


若松を生きる
2022/11/11 06:15

11月9日。旧古河鉱業若松ビル館長の若宮さんに会いに行きました。爽やかな秋晴れだったせいもあってか、「いい所だなぁ~。もっと宣伝したら、観光客が増えると思うんだけどなぁ~。」と、しみじみ。(「宣伝」が難しいことを痛いほど知っているのですが。)若宮さんに、戦中の若松の記録、炭鉱の記録についてお話を伺い、「若松市史第二集」を大量にコピーさせていただきました。分厚くて重く、本を傷めないようにコピーするのも一苦労。それもそのはず。大変詳しく、具体的に記録されています。実は、この前の『活動報告』の最後に書いた「すてきな出逢い」が、この墜落したB29を見た方との出逢いだったんです!たまたま「戦争のころのことを知っている方」を訪ね歩いていた時に、「最後の一軒」から出てきた方でした。不思議です。「『書き残そう』と思われた方がいたのですね。」と、今、自分がしようとしていることと重なった(レベルは違いますが…)からでしょう。そんな言葉が口から・・・重い本を傷まないように気を付けながら、「あとがき」へ。『編集長 玉井政雄』なるほど!『菅報的記録としてより少しでも市民的性格を持たせようとした。』再度、なるほど!!玉井政雄さんは火野葦平の弟です。火野葦平は、「兵隊作家」などと呼ばれ、「麦と兵隊」「土と兵隊」「花と兵隊」を書きました。戦後は、戦犯として公職追放を受けました。でもその作品は・・・この兵隊三部作。「どうして『戦犯』に?」と、読んで思いました。うまく表現できませんが、私には、『人間』を感じさせる作品に感じられました。どういうわけか、心がほんわりする作品。・・・そんな火野葦平の弟。玉井正雄さん。「『庶民の目線』をお二人とも大事にされていたのかもしれないなぁ。」なんだかエライ人が身近に感じられて、うれしくなりました。若宮さんには、中学生(証言者の聞き取りをしてくれる)に、昔の若松区のお話をしていただくことをお願いして、「まずは、これ(コピーしたもの)を読んで勉強します。」と伝えてこの日は帰りました。あ!若宮さんにすごいことを教えてもらい、感激したことを最後に少しだけ!!「『蜑住』・・・いい場所ですね。蜑住は要所なんですよ。ーーーー昔は海だったところです。元禄くらいかその前くらいに埋め立てられたんです。大陸や朝鮮半島から人々が渡ってきて、東へと向かったんですね。信州安曇野とも深い関りがあるんですよ。」世界はつながっている!!人類もつながっている!!若宮さん、お忙しい中、大変親切にありがとうございました。


11月8日。ぎっくり腰とワクチン接種の副作用から復活しました!「健康第一!」を思い知らされた1週間でした。いろいろなことを並行してやっている中で、「若松区のことを記録に残す」活動もその中の大きな一つです。只今の進行状況は・・・多くの方々にお声掛けいただき、紹介して頂いた方には、電話をして話をしていただける時には会いに伺っています。その中で分かったこと。それは、若松区の空襲の体験を証言ができる方がほとんどいない(見つからない)ということ。「もう遅いのか・・・この取り組みは断念すべきか。」と、一時は考えました。でも、こうして証言者探しをする中で、空襲のこと以外で、記録に残すべきことがあることに気付きました。「戦争(被害)で起きた事実だけでなく、戦争(被害)につながった事実も残さなければ。」つまり、若松の炭鉱(関連)のことです。前にも書きましたが、新しい資料室のすぐ近くに、日本炭鉱の竪坑がありました。戦争を支えていた石炭産業のことを展示に加えることは意義があると考えました。これまでもいろいろなことで支えてくれている友人のご実家の近くが、昔は炭住だったというので、「炭鉱のことをご存知の方はいませんか。炭住でのくらしについてご存知の方でも・・・」とお願いました。お母様からの紹介から始まり、巡り巡って「もとタバコ屋さん」のHさんを訪ねました。炭鉱で交換手をしていた方でした!「もう、覚えとらんよ~」と言いつつ、まんざらでもない御様子に、「連絡先を教えていただけますか?」とお電話番号を教えていただきました❤(また日を改めて聞きに行く予定。楽しみです。)Hさん家を出て、二島緑道に寄りました。記念碑(慰霊碑)がありました。以前、見たことがあったのをすっかり忘れていました!二島の炭鉱の坑口があった場所まで歩いてみましたが、当時のものらしきものは見つからず。八幡空襲を語り継ぐ会で出会ったTさんからは、抗夫として採炭していた方を知っていると連絡あり。こんど、いっしょに伺う予定です。若松空襲のことと、そのころの若松区の町の様子と、そこで生きた人々と。新しい資料室に展示できたら最高です!この活動については、あと10年早ければ・・・と思うことはしばしばです。でも、「やらないよりはいい!」と、当時を知る方に会うたびに思うのでした。(実は、この日、もう一人すてきな出逢いがありました!次回に)今日は、旧古川興業ビルの館長 若宮さんに若松のことを教えてもらいに行ってきます!


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