遺跡? マチュピチュ?先人の生活の跡です。かつて16戸あったセキゼ集落があって川の向こうにも ウスキ集落がありました。今は・・・すっかり人の姿はなく・・・残るは生活跡のみ・・・。山からの湧き水を田畑に引くための水路・・・全長3㎞にもおよびます。重機の入れない または 重機のなかった時代河原の石をここまで持って上がり積み上げたのだと思います。すべて手作業でここまで積み上げてこられた先人の方たち尊敬・畏敬・崇敬 どう表現すればいいでしょう! 私も、まだまだ経験も学びも足りていません!
最近 少しの雨でも河川の水が泥の水と化し、下流に一気に流れていく風景・・・。日本のどこでも見られる風景だと思います。過去に植えられた 杉やヒノキは放置され、いったん山に入りますと・・・真っ暗な下草一本生えていない 「死んだ森」生業は衰退し、高齢過疎化によって里山に住む人がいなくなり、山や田畑の管理を放棄されているのが原因です。森は海の生き物も養っています。森の腐葉土に含まれる養分は、雨水や雪解け水に溶け出し川から海へ流れていき、海中の植物プランクトンを育み、海藻や魚類・貝類の食べものになります。森の栄養を含んだ川の流れ込む海では、植物プランクトンが通常の海に比べて約30倍も多いとのことです。それだけ海の生きものにとって森は重要なのです。それだけではありません。森からの成分には、海を磯焼けを防止するものが含まれていることもわかってきたのです。まわりを海で囲まれている日本列島は文字どおりの島国ですが、その国土の約4分の3は山です。日本の歴史と文化は、海と山そして海と山との間の盆地や平野のなかで創造されてきました。自然の破壊・地球の汚染やその温暖化が危機的状況をつくりだしているなかで、改めて「里山の文明」が見直されつつあります。里山そのものが文明ではなく、里山を生かす文明のありようが問われているのではないでしょうか?陸の人間が川を汚すと、海の生きものを食べることによって、結局人間自身に帰ってくるのです。人間も自然の一部であり、食物連鎖の輪のなかにいるということを、もう一度よく考えないといけないと思います。里山が健全でこそ、人類の未来があるのです。だからこそ!過疎化の進む里山に住む人をいかに増やしていくか?仕事を作るためにいかに森と密接に暮らし、生計を立てられるか?里山で暮らしていくための新たな仕事づくりとデザインづくり私のこれからのライフワークであると思っています。 https://camp-fire.jp/projects/view/727450
誰もが大切であると認める生命大切なものだからこそずっとそのままでいてくれたらいいのにと思いますが、必ずいつかは消える仕組みになっています。生命は、はかなく、いずれ必ず消えてしまう。寿命や他の原因で死んでしまうことを私たちは知っています。生から始まって死に至りますが、生を次代に委ねることによって生がつながっています。つまり、「リレーされる生命」とは、継承される生命ということ。死後に自分の生命の種を維持保存し、次代をつくりだそうとする不思議なサイクルで、生命の種が継承され、営みが続けられるのです。小さな草花もアリのような虫も私たち人間も、みな同じ生命の持ち主であり、その生命力は遠い先祖からはるか未来へリレーされていく生命なのです。生命のつながり・・・個々には永久的ではないけれど、滅したのち次のものに生まれ変わる生命循環という流れの中で永遠です。因と縁でお互いに助け合いながら自然のバランスを保ってきたすべてのものに、私たちは生命や心を感じます。大自然すべてが少しもうそ隠しがなく、目の前に堂々と現われている真理を無心に眺める時、全てを包む大きな意味での生命の中に生と死を深く見つめることができます。生かされ 生きています!https://camp-fire.jp/projects/view/727450
旧芳井小学校から少しだけのところに一軒の空き家があります。その空き家の裏には、わずか50㎝足らずの井戸?があってこんこんと水が湧き出しているのです!そして湧き出した水が貯まる池が庭にあって、現在、お遍路さんたちの休息の場となっています。まさに自噴するお宝の場所なのです。そんな自噴する水脈があるとすれば旧芳井小学校の裏にある井戸も、しっかりと整備すれば使えるのではないかと期待しています。
旧芳井小学校の裏にある井戸昔は使えたそうですが、今は晴れが続くとすぐに枯れてしまいます。彌都波売神(みずはのめのかみ)さまをずいぶん長い間お祀りしていなかったからでしょう。今週末にでも、井戸の周囲をきれいにして、米や塩や酒などをお供えしてから井戸の底に入って掃除しようと思います。先人の方が遺してくれた貴重な財産これを使わない手はありません。https://camp-fire.jp/projects/view/727450