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現在の支援総額

18,000

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目標金額は1,000,000円

支援者数

4

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2021/04/05に募集を開始し、 4人の支援により 18,000円の資金を集め、 2021/06/04に募集を終了しました

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 二週間後にマリアから長い手紙が海彦に届いた。 海彦は封を開けると途方に暮れた。またもスペイン語で書かれている。英語なら何とかなる。スペイン語になるとお手上げ。仙台でスペイン語に精通している人はそう居ない。そう云えば学校の課外授業にフラメンコを教えに来ているスペイン人の先生が居る。 海彦は学校の事務室に行って、訳を話し、頼み込んで、フラメンコの先生の連絡先を教えてもらった。アポを取ると、先生は快諾してくれた。それからは全力で自転車を走らせ、先生の住まいに向かった。先生は手紙を読み、口頭で日本語に翻訳してくれた。    海彦は聞き漏らすまいと集中。ボールペンを走らせた。—またスペイン語でのお手紙になります。 ゴメンナサイ。わたしは日本語を読めるようになりました。でもまだ上手く書けません。漢字がとても難しい。平仮名と片仮名の使い分けも大変。仙台に行くまでには書けるよう                           になりたい。頑張ります。仙台行きのスケジュールが決まりそうです。友好協会の伊達さんから手紙が昨日届きました。わたしを仙台に招いてくれるそうです。スケジュールは私の都合で良いと書かれていました。 夢を見ているようです。 今日は十一月二〇日。今からでも飛んで行きたい。けれど学校を長く休めません。クリスマスは家族と過ごさなければなりません。日本人がお正月には家族が集まって、美味しいものを食べると、日本語学校の先生が話していました。日本人はクリスマスよりもお正月が大切と知っています。スペイン人はお正月よりもクリスマスが重要なのです。それでクリスマスが終わってから行こうと考えています。伊達さんにもそう書きます。 学校は十二月二十三日から二週間お休み。スペインでも英語圏と同じように『Christmas & New Year Holiday』と呼んでいます。 海彦の手紙でひとつだけ分からない文字がありました。 『男伊達』です。教えて下さい。セビリアの日本語の先生は若い女性の日本人ですが、聞いてもハッキリしませんでした。彼女は「男の中の男」と。わたしは少し違うと思っています。彼女の言う通りなら嘉蔵の和歌の終わりは「これが本当の男の中の男」になります。 日本語で『男伊達』とは「男の中の男」を意味するのでしょうか。 『男伊達』と結んだ嘉蔵は「自分は伊達藩のサムライである」との矜りを詠んだのだと思っています。嘉蔵の矜りである「伊達藩のサムライ」とは…。これがわたしの疑問です。 海彦の謎は、海彦がコリア・デル・リオに来ないと分からないと思います。 来たなら必ず解けるはずです— 海彦はふ~っと息を吐いた。『男伊達』を説明するのは難題。難題に向かう前にマリアが書いた文字の綺麗さに衝撃を受けた。前回の手紙同様に、丁寧に、スペルが記されていた。よほどの気合を込めないと、こうは綺麗に書けない。海彦は自分のスペルの汚さを恥じた。 それにしてもマリアは賢い。『男伊達』を見逃さなかった。 仙台人でも『男伊達』を外国人に、ひと言で、分かってもらえる人は、数少ないはず。俺も今のところは伝えられない。マリアに「そうなんだ」と、分かってもらえなければ、嘉蔵の和歌を書いた意味が半減するし、嘉蔵に申し訳ない。 海彦は『男伊達』が日本語に定着するまでの歴史を考え始めた。 海彦は書き取った翻訳文をパソコンに打ち込み、プリントして、マリアの返信原文を添えて海太郎に差し出した。「まだ知らせていなかったけれど伊達から連絡があった。友好協会がマリアを招待すると正式に決めたそうだ。いよいよだな。ところで『男伊達』をマリアにどう説明するんだ」 読み終えた海太郎が言った。「難しいけれど何とかするよ」「そうか。頑張れよ。マリアは利発な娘だ。『男伊達』には伊達藩の歴史と我々のIdentityが詰め込まれてるからな」—マリアの『男伊達』への疑問は正しい。「男の中の男」は間違ってはいない。けれど正しくない。『男伊達』が日本語として定着するまでには古くて長い歴史がある。今はそれらを省略。マリアが仙台に来た時には『男伊達』を時間をかけて伝えます。「嘉蔵は『自分は伊達藩のサムライである』と矜りを詠んだ」との理解はその通り。                                マリアが日本語の他に日本を一生懸命に勉強しているのが分かります。国語辞典には伊達男の意味が三通り載っています。『人目につく洒落た身なりの男』『弱い者を助けようとする男。その気性を侠気(きょうき)と云う』『勇敢に戦う男』 何れも伊達藩のサムライへの誉め言葉です。通例では『伊達男』と使われます。それなのに男を頭に置いて『男伊達』と書いたのは嘉蔵の矜りの強さなのです。この使い方を倒置法と云います。倒置法とは強意。嘉蔵の和歌は日本に残される家族と故郷への別れ。そして「自分は伊達藩のサムライらしく故里吾出瑠里緒で生き死ぬ」と高らかに宣言した。その嘉蔵の想いのすべてが『男伊達』に込められています— 海彦はマリアからの返信を海太郎に見せなかった。 マリアの日取りが決まった。十二月二十七日から一月五日まで。■4/12にリターンを見直しました。活動報告の4/12をクリックして下さい。


 十一月上旬。海太郎は伊達慎一に呼び出された。二人は高校の同期だった。共に仙台の『日西友好協会』に所属している。伊達は会長を務めていた。「先月の終わり、協会にスペインから手紙が届いた。スペイン語で書かれていたので翻訳を頼んだ。それで時間がかかったしまった。とにかく読んで欲しい」—私はマリア・ロドリゲス・ハポンです。コリア・デル・リオに住んでいる十七歳。高校に通っています。思い切って手紙を書きました。 仙台に今も「たきのうえ」を名乗る方が住んでいるのでしょうか。私の先祖は「たきのうえよしぞう」と昔から伝えられています。お墓もあります。もし私の先祖と繋がりがあ                                    る方が住んでいるなら是非、一度お会いしたい。そう願いを込めています。突然の手紙で                                      すが、宜しくお願いします—      読み終えた海太郎は伊達に言った。「何時か、こう云う日が来るのではと想っていた。いや、来て欲しいと願っていた。この願いとは祈りに近い」「彼女への返信は任せて良いか」「もちろんだ」 海太郎は封筒を手に取り、差出人の住所を見つめた。そこには確かに『コリア・デル・リオ市』と書かれていた。現在は村から市に変わっている。「どうだろう。成り行き次第だが協会で彼女を招くと言うのは…。そのくらいの予算はある。理事会で賛同してもらう手続きが必要だけれど反対する者はいないと思う」「そうなると彼女はホームステイになるな。俺の処で良いのか」「そう言ってくれると思っていた」「分かった。これらを前提に返信を書く」「お前が書くのか」「いや。海彦に書かせる。同じ十七歳だし。俺が書くと何かと堅苦しくなる」 その夜、瀧上家では家族会議が開かれた。海太郎以外の五名が一人ひとり、マリアからの手紙を読んだ。皆が読み読み終えると海太郎は昼間、伊達に呼ばれた経緯を話した。そして「マリアが仙台に来た時には歓迎しようじゃないか。マリアも嘉蔵の子孫。俺たちも、みんな、嘉蔵の子孫だ。海彦。返事を書いてくれ」。 彩は自分が書くものと思っていた。父の海彦指名に唇を尖らせ、頬を膨らませた。「海彦。大丈夫。手紙に何て書くつもり。日本語で書くんでしょう。スペイン語は無理だし英語も無理っぽい。日本語で書く他ないわよね。スペインは多民族多言語国家だからマリアは英語を話せると思う。英語で書いてみたら。私なら英語で書く」 彩はまくし立てた。彩は地元の大学に進み英文科の三年生。「ここは海彦に任せようじゃないか」と海之進が彩を遮った。静が「何時、来るんだろう。楽しみだね」。志乃は「私たちと同じ先祖の方とお会いするとは夢のようね。どんな娘さんなんだろう。きっと美人で可愛いお嬢さんよ」。「ホームステイとなると母さんが大変になる。みんなの協力が必要だから宜しく頼む。彩にも頑張ってもらいたい。マリアには幸せな時間を過ごして欲しい」と海太郎。   海太郎から名指しで「頑張ってもらいたい」と言われた彩は気分を取り直した。「妹が一人できたみたい」「みんなスペイン語ができない。マリアの為にもスペイン語を勉強しよう」 海之進は自室に戻って一冊の本を持って来た。『一週間で話せるスペイン語』。「何時か役に立つと思って買ったんでしょう。しかし積読のまま。役に立つ時がやっと来たのね」と静は、海之進と、眼を合わせ、微笑んだ。 彩が「文法は英語と似ていると思う。でも会話は文法よりも単語。一〇〇も覚えたら何とかなるわよ」と言うと、「そうだな。私も一〇〇を覚えるとするか」と海太郎。 瀧上家の意気込みは不要だった。マリアは何時かの日本に向け日本語学校に通っていた。今年で七年目。日常会話には困らない。今では英語よりも達者。   海彦は茫然としていた。彩の何時もながらの出しゃばりにウンザリ。彩を無視しつつも海太郎の表情を窺った。…なぜ親父は俺に書かせようとするのか… それが分からなかった。我家を代表してマリアに家族の熱い気持ちを伝えなければならない。これだけが重く覆い被さってくる。何を書くのか。まったく浮かんで来なかった。 今まで親父の代りなど務めたことなし。それに女の娘(こ)に手紙を書いたこともない。 海彦は、スペイン語で書かれたマリアの手紙を見つめ、翻訳文を読み返した。 自分の言いたいこと、読み手に伝えなければならないことが短い文で書かれている。きっと頭の良い娘なんだ。俺はどうなんだろう。マリアに会ってみたいのか。どうでも良いのか…。会ってみたい。俺の中で燻っている嘉蔵の謎を解き明かすチャンスが巡ってきたのかも知れない。そうだ。余計なことを考えずに俺のこと、マリアに伝えたいことをスッ                                    キリと書けばそれで良い。難しく考えては駄目だ。—僕は瀧上(たきのうえ)海彦(うみひこ)です。マリアと同じ十七歳(高校二年生)。瀧上嘉蔵(よしぞう)の十六代目です。マリアからの手紙を家族みんなで読みました。何時でも仙台に来て下さい。大歓迎。  僕には謎がひとつあります。この謎は瀧上家に脈々と受け継がれ、先祖の方々の誰も解き明かしていません。                                 …何故嘉蔵は帰還せずコリア・デル・リオに生き死んだのか… 長い時の間に数々の説が語られ、そして消え、謎だけが命を繋いでいます。                                     『大海に もまれころがり はや五年 支倉の無念 如何ばかりか 而して我は 望郷を 打ち振り払い 此処に残らん 我を求めし 故里吾出瑠里緒 これぞ誠の 男伊達』 これは嘉蔵が家族に届けた文に認められた和歌です。僕はマリアに嘉蔵が故里吾出瑠里緒(コリア・デル・リオ)に残った訳を尋ねたい— 「父さんの名代で書いた」マリアの手紙を読んでから一時間ほどで示された返信に海太郎は驚きを隠せなかった。                                    「もう書いたのか」「時間が経てば経つほどにグチャグチャになってしまいそうだったから」 海太郎は二度読んだ。「私が海彦に書けと言ったのはこう云うことなんだ。お前なら、きっと、こう書いてくれる。家族の皆が胸の奥深くに仕舞い込んで忘れることのない謎を書いてくれる。ありがとう。嘉蔵の惜別の詠を載せてくれて、ありがとう」。 メモは海太郎から海之進に渡され、彩まで回され皆が読んだ。 読み終えると、みんな、黙り込んでしまった。 


 一六二〇年(天和六年)九月五日。支倉常長は長崎に着いた。乗っていたのはサン・ファン・バティスタ号にあらずマニラからの徳川幕府の御朱印船であった。サン・ファン・バティスタ号はイスパニア兵をアカプルコからマニラに移送する役目を担っていた。当時イスパニアとポルトガルはフイリッピン支配の覇権を巡り戦いが続いていた。それで大砲十六門を備えられる五〇〇トンのガレリン船の供出を余儀なくされたと思われる。 ガレリン船とは大航海時代に活躍した三本のマストを立てた西洋式帆船。 支倉は幕府の取り調べによる長崎滞留の間に政宗に早飛脚を出している。八日で仙台に届いた。文には、通商が叶わなかった謝罪と無念が連綿と綴られ、従者八名がイスパニアから帰国しない旨を申し出た故に、それを認めたと添えられていた。 戻らなかった者たちの名は記されていない。 この文が政宗に届くと家老は「支倉常長一行が近々に帰ってくる」と布令を出した。 城下の関心事はイスパニアとの交易が実現できなかった苦渋より、戻って来ない者の特定と詮索であった。戻って来ない者は誰と誰なのか。その理由は何か。八名の未帰還者の存在だけが事実。他には何ひとつ確証がない。憶測からの噂が彼方此方で囁かれ広がる。憶測からの仮説。仮説が仮説を呼び、尤もらしい噂話しに熱中するのは今と変わらない。 蔵之介は八名を不忠義者と断じた。 九月二〇日。支倉常長が仙台に帰還。 蔵之介は嘉蔵との七年ぶりの再会の悦びを胸に月の浦に向かった。 江戸からの船に支倉常長一行が乗っていた。下船者に嘉蔵の姿は無かった。与助も見つけられない。無礼を顧みず蔵之介は支倉に嘉蔵の安否を尋ねた。「生きておる。イスパニアのコリア・デル・リオに残った。与助も一緒だ」 茫然自喪の蔵之介は支倉の側近から嘉蔵の文を渡された。—我は故里吾出瑠里緒村に留まり候 与助も残ると申し候 詮索するに及ばす もとより 死を覚悟しての船出 我は異国の地で死に申す 然して世間から色々と取だたされし候 なれど 我は忠義を尽くし致し候 これだけは申し候。「大海に もまれころがり 早五年 支倉の無念 如何ばかりか 而して我は 望郷を打ち振り払い 此処に残らん 我を求めし 故里吾出瑠里緒 これぞ誠の 男伊達」— 蔵之介の受難はこの時から始まった。「嘉蔵は忠義者と思っていたが間違いだった」「残される家族よりもイスパニアが大事だったんだ。これまた不思議な話し」「人は分からないもの」                                        「大方、女でもこさえたんだろう。そうでもないと説明がつかない」「俺なら女を捨てて帰ってくる」「いやいや女次第じゃて」「よほどの女なら俺はイスパニアに残る」「女かも知れぬが帰りも一年二ケ月の船旅。無事には済まない。海に臆したのかも」「偉そうにしていても嘉蔵は案外、臆病者だったのでは」「臆したのならば敵前逃亡」「嘉蔵は弱虫か」「戻って来ない臆病者の禄が百五〇石とは間尺に合わない」 人の口は止まらない。塞げない。こうしたヒソヒソ話しは嫌でも蔵之介の耳に入ってくる。家族の者もすべからず知る。こたえたのは「臆病者」「敵前逃亡」だった。それでも蔵之介を支えたのは嘉蔵の「忠義は尽くした」であった。尽くしていなければ支倉常長は不帰還を認めない。繰り返し湧き上がるのが「親父殿に何があったのだろう」。 人の噂も四五日と云うが、城下での陰口悪口は執拗だった。三ケ月経っても収まらない。 家老は風紀の乱れを懸念した。放置すれば藩政に影を落とす。 家老は蔵之介に蟄居謹慎を命じ、政宗には瀧上家の取り潰しを上申した。「帰還せざる者、これ不忠義者なり」 支倉は「拙者が認めた沙汰」と穏便を政宗に願い出た。 お家の取り潰しは免れたものの見せしめ的な措置が下った。家老の狙いは城下に蔓延する悪しき風評の封印。封印しなければ遣欧使節団の失敗の責が自分にも及ぶやも知れぬ。  蔵之介は道場の師範を解任され四十四俵の蔵米取りに。そして無役になった。彼はそれらを受け入れ、耐える他なかった。陰口・悪口・噂・故なき風評が止むなら、それで良し。 蟄居謹慎が解かれると往来での立ち話しは消えたが「無役のただ飯食らい」は続いた。 無役になった蔵之介は二名の家来に暇を出した。家老に頼み込んで二名を抱えてもらった。与助の家族だけは守らなければならぬ。これが減俸禄時の蔵之介の決意だった。 与助は親父殿に忠義を尽くして故里吾出瑠里緒に残ったのだ。 蔵之介は長男与作に跡を継がせ扶持の二〇俵を維持した。  蔵之介は不屈だった。無役を逆手に取り、大いに活動した。 戦さが終わってから久しい。時代が落ち着くと人の往来が盛んになる。彼方此方で産業が興る。物資の流れも益々増える。江戸の町は人が増える一方。必ず米が足りなくなる。 蔵之介は仙台から江戸への回米を考えた。それまで仙台と江戸を繋いでいたのは不定期                                    船だった。ここに着眼した。不定期便と定期便とでは商いの方法が違ってくる。定期船には人々の期待と要望が強まる。そうなれば船賃も高く取れる。                                                                               蔵之介は与作に江戸往復船に見習いとして乗り込ませた。与作も必死だった。 蔵之介は「これからは海の時代。海を制した者が生き残る」と家老に江戸往復の定期船開設を願い出た。嘉蔵不在の七年間の蓄財すべてを資金に充て千石船を購入した。不足分は借金で補った。千石船とは北前船の船型と同じである。千石船とは米二五〇〇俵を積み込める。それで千石船。しかしながら当時の船の多くは百石程度。百石を越える大型船を千石船と呼んでいた。蔵之介が購入した船の積載量は千石の半分。五百石の米を積めた。満載で千二百五十俵。蔵之介は船の安定化を考え千百俵を上限に据えた。積載量の余裕は百五〇俵。重さにして九トン。その余裕分で人を運ぶ計画。定員は五〇名。 家老に定期船開設を願い出た蔵之介の狙いは荷の保証だった。当時は荷への損害保険が無かった。我国に損害保険が導入されたのは明治に入ってからである。時化などで荷に損害が生じると、その保証は船主に帰した。万がいち船が沈んだ時には全額を船主が負担しなければならぬ。蔵之介には不可能。不可能と分かれば信用されず、誰も荷を預けない。 今で云う江戸への定期船開設上申書は政宗の眼に留まった。自らの責任能力を超えていると悟った家老は政宗に上申した。政宗は即断。「江戸への回米は藩においても必須。今は江戸の米商人に言い値で買い叩かれている。藩自らが米を江戸に、それも定期的に運び、競りにかけたなら高く売れる。帰りには江戸に集まる各地の物産を積む。これらは奥州諸藩に飛ぶように売れる。定期船とは実に秀でている。米の保管や運搬の段取りも付け易い。荷の保証は是。これで人の行き来も増える」 これが「江戸の米の三分の一は奥州米」の礎。 蔵之介は船に海洋丸と名付けた。 与作は働き者の他に優秀であった。三ケ月の見習い期間に江戸までの航路海図を作成し操船技術を習得した。海図には陸の姿と黒潮の流れが描かれていた。「沖に出過ぎると黒瀬川に呑まれ、それを恐れて陸地に近づき過ぎると岩礁に乗り上げる。黒瀬川は海が黒い。注意を怠らなければ呑まれない。沖に出ると船足が早くなる。出来る限り沖に出て黒瀬川を避けるならば江戸までは難しくない。早ければ三日。遅くとも四日で着く。問題は八月下旬から十月下旬にかけての大嵐。この間は休みましょう。城内には布令を出し早飛脚を江戸の商人に届けましょう。そうすれば信用は損なわれない」 蔵之介は与作の進言を受け、片道四日、二週間一往復を決め、与作に船頭を命じ、自らは船主を名乗った。江戸での競りと買い付けの責任者の選任を与作に任せた。与作は一人の若者を江戸から連れ帰った。伍平と名乗った。伍平の父も帰還しなかった八名の一人だった。伍平は江戸の米商人の処で手代まで務め上げていた。与作は伍平を引き抜いたのである。引き抜き料は一〇両。それを与作は借金して賄った。 感激した蔵之介。                                     定期船は蔵之介の思惑通り仙台と江戸の人々に支持された。特に江戸の米商人には好評                                                                                                                  だった。今までの値の三割増しで取引された。伍平は競りの仕切りが上手かった。持ち帰                                     る江戸に集まった各地の物産の選定にも長けていた。選定を終えると与作は品々を書き写し、伍平が定めた買い値と売り値を記して早飛脚を家老に走らせた。飛脚の袖に心付けを忍ばせると三日で着いた。海洋丸が湊に着くと既に人が群がっていた。我先にと物産を手に吟味する。この時も伍平の捌きは人眼を引いた。半日で売り切ってしまった。 伍平は選定の他に客の望みを受け付けた。いわゆる予約である。予約された品々は売れ残らない。瓦版・木綿の反物・江戸地図が町人に好まれ、伊達藩に限らず諸藩の御用人は書籍・西陣織・江戸漆器・伊万里焼を求め、女たちは紅・簪・手鏡を所望した。                                           ヒトとモノの定期的な活発な動きはカネを生む。 蔵之介は米の代金の九割と物産販売粗利の三割を藩に納めた。米代金の一割と物産販売粗利七割が海洋丸の営業利益であった。旅客の運賃を不定期船より二割安くした。従来は不定期船故に運賃を高めに設定せ去るを得なかった。それを見越しての割安料金。 蔵之介は家老に旅客運賃の折半を申し出た。内密。家老は固辞しなかった。 蔵之介が認めた『嘉蔵始末記』によれば、ひと航海での海洋丸の純利益は莫大であった。時には物産の粗利が米の一割を超えた。三往復で蔵之介の借金は消え、九往復で投下した船の購入費用全額を回収できた。就航後五ケ月で蔵之介は元を取ったのである。 政宗も家老も満悦至極。与作は苗字帯刀を許された。蔵之介は「瀧上を名乗ってはどうか」と与作に言った。与作は感極まり号泣。家系図に血縁なき者が突如、蔵之介の横に並ぶのは与作の号泣による。海に乗り出した蔵之介と与作の夢は同床であった。外洋に出て何時か必ず故里吾出瑠里緒の地を踏み、嘉蔵と与助に本当の訳を尋ねる。しかし二人の夢は一六三九年の鎖国令によって消えた。消えても嘉蔵と与助の不帰還の謎は残った。 滝上家では祖父から孫に文書の読み聞かせが代々続いていた。海彦は海之進から。海太郎は海翔。海之進は海市から。海之進は文書から『嘉蔵始末記』を選び、海彦に一部始終を読み聞かせた。それにより海彦は蔵之介の不屈を知った。同時に「嘉蔵は偉大であるが尊敬できない」が海彦に根づいた。海之進は読み聞かせの度に「分からぬことを詮索するのは無駄じゃ」と言った。それでも海彦には嘉蔵不帰還の謎は消えなかった。


 瀧上(たきのうえ)家では、男子が誕生すると、代々お爺さんが『海』を、ひと文字入れた名を付けた。家系図には嘉蔵から四代目の男子に『海人』とある。以降、瀧上家の男子は全員が『海』を有する。 瀧上家の家系図は嘉蔵以前と以後に分かれている。嘉蔵が瀧上家を存続の危機に陥れたからであった。それでもお家断絶を免れた。 嘉蔵から数えて十六代目の海彦の父は海太郎。祖父は海之進。曾祖父は海翔。高祖父は海市。言い伝えでは、嘉蔵の跡を継いだ蔵之介が、孫に『海人』と名づけてから、男子の命名権はお爺さんに属した、と云う。瀧上家の窮地とは嘉蔵がイスパニアから戻らなかったことに起因する。 一六一三年一〇月二八日。伊達政宗の命を受けた支倉常長はイスパニアに向けて牡鹿半島の付け根の西に位置する月の浦から船出した。政宗の命とは伊達藩とイスパニアの通商の実現。家康もそれの後を押した。通商とは交易。交易とは主に貿易である。 ここでは戦国武将である政宗の野心と家康の魂胆には触れない。 嘉蔵の剣の凄味は藩内でも定着していた。それで藩の道場では師範を務め、四十四俵の蔵米取りであった。これは知行地取りの五〇石に相当する。 嘉蔵は剣に満足せず銃の改良に取り組んだ。単発でしか発射できなかった火縄銃の連発に挑んだ。やがて銃身を二本備えた銃を製作。難点は銃身の重さ。それでも画期的な銃であった。これにより政宗から百石の知行地を与えられた。 それから一〇年。支倉の打診を快諾した嘉蔵により瀧上家は百五〇石に。 ここで当時の百五〇石の価値を述べてみたい。 一石とは成人男子が一年間に消費する米の量を表わしている。明治に入ると一石は二.五俵と定められた。一俵は六〇キロ。一石は一五〇キロ。一日当たり約四一〇グラムの米を食べる勘定。一合は一五〇グラム。一日の米の消費量は二合半と少し。米は炊くと三倍の量になる。茶碗で七杯余。昔も今も一日七杯余の御飯を食べる人は少ない。ここでの米は玄米を指す。江戸時代の人々の多くは年に数回の祝い事以外は玄米を炊いて食べた。みんな玄米の栄養価を知っていた。 当時の平均的家族構成は、爺・婆・家長・妻・家長の兄弟姉妹二名・子供四名(子供は二人で一名と換算)の八名。八名の年間消費量は八石。家来が三名だと二四石。当主の家を合わせると三十二石が年間の消費量となる。 百五〇石の知行地取りは多くて四〇%。伊達藩では三五%が標準。五二.五石が瀧上家の実高であった。家族の消費と家来分を差し引くと二〇.五石が食費を除いた可処分所得。これを銭に変えて米以外を賄った。現在の生産者平均米価(六〇キロ単価一三〇〇〇円)                                                            で換算すると六六六二五〇円。これが瀧上家の自由に使える金員であった。  発展途上と雖も、商品経済が未発達な、自給自足が色濃い江戸時代初期の仙台。米以外の生活必需品の物価は現在の一〇分の一以下。瀧上家は農民町人から羨まれる、何ひとつ不自由がない、恵まれた暮らしぶりであった。 嘉蔵は連発式火縄銃に満足せず、火縄銃そのものの改良を追及した。火縄銃には様々な弱点があった。それを克服するならば主君は天下を獲れると考えた。 雨に打たれると使いモノにならない。一発撃つ度に銃身の先から調合した火薬を流し込む。次に弾丸をこめる。それらを棒で固め定着する。弾ごめに熟練した者でも二〇秒余を費やす。この作業も雨に極めて弱い。雨粒がひとつ入り込んでも不発に終わる。更に銃身に施状溝が刻まれておらず弾道が安定しない。連射すると熱により弾道が伸びてしまった。 嘉蔵は弱点の克服には、火縄による着火を捨てなければならぬ、と気づく。火縄を捨て、新しい方式を造り出すのは簡単ではない。銃身を二本装着するのとは訳が違った。 薬莢を造り、そこに火薬と弾丸を詰め、固定する。薬莢の底に打撃を加えて発火発射するを思いついた。その他にも銃身の内側に螺旋状の溝を彫り、弾丸の軌道を安定させる。 連発を可能にする方法は円柱状の弾倉を作り、それを回転させる四連発を考案した。現在のリボルバー銃である。リボルバー銃は発射すると自動的に弾倉が回転するが、嘉蔵は一発撃つ度に手で回した。手で回したとしても連発銃としては充分。 嘉蔵は薬莢と弾丸の開発に取り掛かった。それまでの円球の弾ではライフリングを彫っても回転が上手くかからない。彫り方の微妙な違いで銃に癖が現れた。野球の投手に例えるなら、綺麗な回転の直球にならない。ある銃は右に曲がり、別の銃は左に反れた。それと完全なる円球を大量に作るのは無理。少しずつ円球に狂いが出た。弾丸によっても軌道に違いが出た。実験結果は施状溝の乱れを正し、弾丸の形状を変えろと諭していた。 嘉蔵は試行錯誤を繰り返し、円柱の胴の先をすぼめ、尖らした現在の弾丸の形状に辿り着いている。薬莢にこめる火薬の調合はこれまでの経験値で問題がなかった。 弾丸の固定は薬莢の内側に膠を用いた。暴発の回避に必要な条件は熱を与えない。衝撃を加えない。弾丸の保管と移動には鉛を伸ばしケースを作った。緩衝材には和紙。 最後の難関は薬莢。撃鉄で薬莢の底を打っても発火しないことが多かった。不発弾が山と積まれた。まだまだ完成には遠い。遠くとも、此処までくると、あと一歩。 嘉蔵の試みはイノベーターではない。発明家であった。しかし嘉蔵はここで追及を止めてしまった。瀧上家に残る『火縄捨去候也』には追及を止めた経緯は記されていない。数多い図面と実験の結果。それと嘉蔵の感想が細かく書かれていた。            政宗の戦略は、戦わずして勝つ、であった。それで勝つ方に就いた。仙台は小田原にも大阪にも遠い。政宗は情報網を張り巡らし戦さの趨勢を分析した。参戦の遅延を責められると政宗は遠方を大いに活用した。嘉蔵は足軽十五名を率いて、小田原に参戦しているが、彼の武功は聞こえて来ない。二連発銃の威力効果も残されていない。小田原の秀吉の下に到着した時には北条が滅びる寸前であった。北条氏政は政宗の加勢を唯一の拠り処として秀吉に屈しなかった。しかし政宗は秀吉に就いた。氏政は降伏。切腹。北条は途絶えた。遅れに遅れた政宗の小田原への参戦は政宗の政治判断。機を窺っていたのである。 政宗は関ケ原には参戦していない。政宗は家康に命じられ、上杉景勝と戦い、上杉の関ケ原への足を止めた。その時、嘉蔵は別動隊として相馬藩に侵攻した。ドサクサに紛れての領地拡張を企てた政宗の策謀。かつて相馬は政宗の領地であった。関ケ原を終えた家康は政宗の動きを知る。二度の大阪でも政宗はまともに豊臣と戦っていない。それで伊達藩の武功は無きに等しい。政宗の戦略は適中するも秀吉も家康も不信を強めた。 家康の時代が始まると戦さが起こらなくなった。それで嘉蔵は四連発銃の開発を止めた。その後の彼の活動を鑑みると、そう考えるのが穏当であろう。 嘉蔵は家督を蔵之介に譲り隠居した。隠居してから広瀬川の治水に乗り出した。 北上川の河川切り替え工事は既に始まっていた。石奉行が担った。工事の全容を知ると嘉蔵は「これでは急流の北上川は再び氾濫する」と断じた。しかし「申すに及ばず」と胸中に留め置いた。計画変更を申し出るには遅かった。工事には政宗の是が下っていた。 一方、広瀬川は手付かず。広瀬川は仙台平野をゆっくり流れる穏やかな川。このゆっくりと穏やかが厄介であった。急流の洪水は被害甚大でも復旧への着手が早い。水の引きが早いからである。広瀬川は氾濫すると一ケ月以上も水が引かなかった。 政宗は嘉蔵の『広瀬川治水建白之儀』に是を申し渡した。 嘉蔵は測量器を作った。地面の高低差を読み取れる単純な造りであったが、大いに役立った。計測できない距離は縄と歩測で補った。 嘉蔵は広瀬川流域の荒れ地に眼を付けていた。荒れ地とは低地の氾濫原。おまけに湿地。此処に蓄えられた水を海に流すなら耕せる。嘉蔵は広瀬川の右岸に一本の水路を考えた。左岸には溜池を五つ。湿地に暗渠を埋め込み水路と溜池に通した。堰には水門を設け、増水時には水門を開き、盛り上がる水を海に流した。広瀬川は治まり、湿地は二年で乾いた。 乾いた氾濫原の土壌は豊か。田圃に向いている。これは弥生時代からの知識であった。三年目の秋には実りをもたらした。水路は運河としても活用できた。湊に陸揚げされた荷を陸地の奥に運ぶのに大いに役立った。 堰に備えた水門が嘉蔵の工夫だった。水門は大人一人の力で開閉できた。歯車の応用。 測量器の使い方、それと治水土木工事の設計図も『広瀬川治水顛末記』に残っている。そこには「黒鍬衆に任せておけない」との嘉蔵のいち文が添えられていた。 伊達藩の石高は公表六十二万石。それを豊作時の実石高が百万石に達するまで増やしたのは嘉蔵抜きでは語れない。伊達藩は前田の百二十万石・島津の七十二万石・越前の六十                                      七万石・尾張の六十三万石の石高に次いで五番目。実石高では島津・越前・尾張を凌駕していた。それでも徳川の外様。外様とは幕府の使役が多い。政宗の戦略の帰結でもあった。 嘉蔵は広瀬川を終えた時に足軽頭の支倉常長からイスパニア行きを打診された。ここでの打診とは命令と同じ意味を持つ。イスパニアへの船出は地球を半周する行程。帰路を合わせると一周分に相当する。何時、帰れるか分からない。生きて帰れないかも知れない。 それまでに西ヨーロッパに渡った日本人は一五八二年の天正遣欧使節団だけであった。九州のキリシタン三大名の名代として少年四名がバチカンを表敬訪問。一五九〇年に帰還                                     している。四名が見知った西ヨーロッパは日本に広く伝えられていない。秀吉が情報を独占してキリシタンとポルトガル・イスパニアの植民地政策の分析に充てた。 嘉蔵には太平洋と大西洋を渡る船旅とイスパニアは未知であった。未知故に彼は死を覚悟した。そして支倉に快諾を告げた。家族にも死を覚悟と伝えた。自分は隠居の身。死んでも蔵之介が家を護る。嘉蔵は後ろ髪を引かれることなく、月の浦に停泊されているサン・ファン・バティスタ号に家来の与助と乗り込み、遠ざかる仙台を見おさめた。■近未来のお届けはひと先ず終了です。僕のもうひとつの追及課題である「スペインと日 本の繋がり」の『アンダルシアの木洩れ日』と『スパニッシュダンス』の抜粋を始めま す。ご期待下さい。


 美子が書店から本を抱えて出ると一人の女から不意に声を掛けられた。 女は美子を見定めるとまっしぐらに近づいた。「少しお時間を頂戴しても宜しいでしょうか」「えっ。なんでしょう…」 薄化粧の女は白のタイトのミニ。同じく白のパーカー。ロングブーツも白。髪はアップ。ストッキングはラメが入った厚手。まるでキャンペーンガール。右手にボールペン。左手にはB5の用紙とバインダー。「女子高生にアンケートをお願いしているのですが…」「貴女は…」「バイトなんです。大学生です」「そう。私に何を聞きたいの…」「アンケートはこれです。各項目にチェックを入れて欲しいんです」 バイトは美子にバインダーに挟んだアンケートを差し出した。 差し出すタイミングが素早くそれにつられて美子はB5の用紙を受け取った。※このアンケートは札幌の女子高生の意識調査を目的としています。答えたく なければスルーして下さい。ご協力頂いた方には御礼として粗品を…。①貴女は札幌の女子高生ですか…。                         □はい   □いいえ②『はい』と答えた方のみの設問です。                         □高一                         □高二                         □高三③パパ活サイトを開いたことがありますか…。                         □はい   □いいえ④パパ活に興味がありますか…。                         □はい   □いいえ⑤パパ活している友達を知っていますか…。                                                   □はい   □いいえ⑥Lineを使っていますか…。                         □はい   □いいえ⑦ツイッターを開設していますか…。                         □はい   □いいえ ⑧援交している友達を知っていますか…。                         □はい   □いいえ⑨最後に援交をどう思いますか…。口頭で構いません。お願いします。 美子は①⑥⑦に『はい』にチェックを入れ他は『いいえ』。②は『高一』。 バインダーごとアンケート用紙をバイトに返した。 バイトは受け取ると封筒を美子に渡した。「ご協力。ありがとうございます。図書券です。使って下さい」 美子が封筒を手に立ち去ろうとすると「援交をどう思いますか」。「痴漢されて誰も助けてくれない。駅に停まるまで地下鉄の電車の中で何も言えず我慢する。叫べずにジッと我慢する。そんな体験を持つ女子高生は多い。同じ痴漢されるならお金をもらって痴漢させた方が良い。あとくされが無い」 美子はむしゃくしゃしていた。 本の表紙と自分の顔の類似を発見してから気分は悪化の一途。 美子が「あとくされが無い」を言い終えると女は眼を丸くした。「なんか。凄~い。こんな言い方の女子高生は初めて。この主張にワタシも同感。貴女とトモダチに成りたい。どう。ダメかな…」「トモダチって。どんなトモダチなのさ」「そう言われても直ぐには答えられない。ワタシは貴女と一杯お話ししたい。そこからトモダチになれたらイイなぁ~と思っただけ」 女はバインダーの裏側に挟んだ名刺を美子に渡した。  『(株)Cosmos企画    事業部   美上 瀬里奈 』  女はバイトでは無かった。 名刺にはLineのIDとメルアドが記されていた。「コスモ企画はパパ活サイトの運営会社なの。気が向いたら連絡下さい」「分かった」 美子は女に会釈して離れた。 封筒の中には千円の図書券が入っていた。「あんなアンケートを何に使うのだろう。お金を使ってまで…」パパ活サイトの手先になっている女子大生も居るんだ。本当に女子大生なんだろうか。何を目的にしているのだろう。お金かな。でもお金だけでは無さそう。何やら活き活きしていて楽しそうにしている。パパ活サイトの運営は楽しいのだろうか。そもそもパパ活ってパパをゲットするのが目的。そのサイトに                                お金を払うのは男。目的を達成する男が居なければサイトは消滅する。違うかも知れない。男の目的と女の目的が一致しているからこそお金が発生するのだ。と云うことは低額でも女からも登録料として徴収しているのかも知れない。だったらWin Winが成立する。結構稼げるのがパパ活サイトなのかも知れない。ネットの週刊誌の広告で三人の男をパパにしている女子大生の手記が載っていた。パパ活の成功者だった。オチが付いていた。女は三人の男の名前をうっかり間違って言ってしまい一人のパパを怒らせた。弁明も虚しくパパを一人喪った。以来その女はパパを二人に決めたそうだ。笑えた。何が楽しいのか聞いてみたいものだ。可笑しな世界に足を突っ込んで楽しんでいる女も居る。 美子は二〇メートルほど歩みを進めた時に振り返った。 女は既に姿を消していた。…変なの。私一人だけのアンケートだったみたい… 美子は女の名刺のLineのIDを見つめた。 IDを警戒することなく私に示すなんて本当にトモダチに成りたいのかも。 美子は女をパパラッチと呼ぶことにした。  そう。 美子一人だけの為のアンケート。 美子に接触するのが目的のアンケート。 地下街の巨大な円柱の陰に美子を隠し撮りした男が隠れていた。 女は男に結果を報告。 女を使った目的は美子のLineのID或いはメルアドを知る手始め。…私は夢中になれるものを見つけなければ陽大に憑りつかれたまま。恋に恋していると疎まれる。陽大を私に魅きつけないとダメ。「陽大。どう。私って素敵でしょう」と言わずとも伝えなければ…。それには輝ける夢中が必須。でもそれだけで無いような気もする。夢中が必須なのは当然でも欠けているものが在りそう。輝やいているのも魅力のひとつ。男を魅き寄せるのはナニ…。大人の女なら色気が欠かせないはず。私は男を魅き寄せたいのでは無い。陽大を魅きつけたいのだ。女として足りないものが多いのは分かっている。色っぽくて科を作る女子高生も居るけれど女子には不人気。「いやらしい」「何時も男の眼線を意識している」「チャンスが在れば、いいえ、チャンスを作ってでも男を誘惑しようとしている」などなど。こう言う女子は科を作れない。色っぽくも無い。私も科を作れない。試したこと無し… パパラッチは科を作るのが上手そう。男を誘惑して楽しく過ごしていると思ってしまう。私の身近に居ないタイプ。男を魅きつける方法を一度聞いてみたいものだ。その中に陽大に当てはまりそうなモノが在るかも知れない。 翌日。美子は手帳に挟んだパパラッチの名刺を取り出した。 Lineが繋がった。                                                     『色々と聞きたいことが在ってLineに繋げました』 直ぐに返事が来た。■『(下)犯罪者』の抜粋はこれで終了です。予定の10回が延びてしま いました。区切りが良い処を探している内に長くなりました。美子の 恋患いは深まり激しくなってゆきます。その様子は本編を読むと明瞭 になります。■明日からは日本とスペインの繋がりを表す『アンダルシアの木洩れ日』 の抜粋を届けます。楽しみにして下さい。計15回を予定しています。