2015年8月8日~8月12日 Sさんより届いたメッセージです。 どうか最後までお読みください。 福島県郡山市に残る夫が、私達3人が暮らす北海道にやって来ました。会うのはお正月に私達3人が福島へ帰省して以来です。 日程を決めるのは、何より飛行機のチケット次第です。今は半年前からチケットを売り出しますから、お正月やお盆はすぐ売り切れてしまうので、 家族の都合が本当に良いかどうかなどわからなくてもとにかく買うしかありません。 そんなわけで今回の日程も夫の都合で決めたものの、思いもよらない事態になりました。なんと長男が部活動で北海道代表としてインターハイ近畿大会に出場。8月5日に出発し、帰宅するのは11日の夜ということで、せっかく父親が来たにもかかわらず、家族4人が揃ったのは11日の夜から12日の昼までのほんの16時間でした。長男が帰宅した夜に近所の居酒屋さんでやっと落ち着いて4人揃って乾杯を店員さんに撮ってもらいました。 そして翌日午前中には、家族写真を撮りに写真屋さんへ。半年後には長男が大学進学し、現在の二重生活が三重生活になる予定。今後は家族4人が揃うことなどなかなか無いので、家族の普通の写真を撮りました。写真を撮り終えて、夫をJR駅に送り、家族4人の16時間が終了。成長していく息子たちを見納めて、夫は福島へ帰りました。 我が家は震災後5月まで自宅にこもっていました。換気扇も使わず窓もなるべく開けない生活をしましたが、間違いなく子ども達を初期被ばくさせてしまいました。周囲では3月中はお子さんを県外へ避難させたお宅が多くありました。備蓄はあったけれども県外に身寄りがなかった我が家としては考えた末の選択でした。 再開された学校生活では、子ども達の部活動や屋外活動には不安が多く、子供達の生活にはたくさんの制限や不自由があり、それを支える母親達も子ども達と同様、その苦労とストレスは大変でした。 子ども達の小中学校の運動会が当面延期された5月末、Twitterの情報から避難した北海道に転校したその日は中学校の運動会でした。北海道では何事もないように土埃にまみれて綱引きができ、青空の下で家族でお弁当を食べられたのです。その生活の違いのショックといったら、パラレルワールドのようでした。福島県を出てさえしまえば、子ども達は何の不安もない学校生活がのびのびと送れました。なぜ国はこのような避難・疎開を認めなかったのでしょう。 そして、親と離れた状態であの揺れの恐怖の記憶が子ども達の心にどれだけ刻みこまれているか。 おかげさまでこの地に来てから4年半、ここは一度も地震で揺れたことがありません。子供だけでなく親の私も、ここに暮らしてみて安心ということを本当に幸せに思います。 一方、福島に仕事と住宅ローンと共に残った夫が不憫です。交通費がかからないのであれば、もっと北海道に来たいところです。 小学校6年生で北海道に来た次男も今年は高校1年生。たまに会うからこそ子どもの成長ぶりがはっきりわかるという部分はありますが、息子二人と男同士の付き合いをすることもできないのを残念がっています。 来年は長男が大学進学し、三重生活が始まります。我が家のライフステージの中で一番お金がかかる時期になろうとしています。しかし、自主避難の住宅支援も打ち切りが決まりました。次男が高校を卒業するまでは転居させたくないので、自力でなんとかしていくしかない。 こういった制度では、色々なことが収入で判断されますが、支出を考えてはくれません。住宅ローンも既に減税措置期間は終わっていますし、大学や高校の費用も自主避難者には何も支援がありません。支出が増えるのだから収入を増やすしかないのですが、そうすると数少ない支援や助成も受けられなくなります。 パパに会いたいプロジェクトのような民間の支援は本当に数少ないありがたい支援です。自主避難者の住宅支援か、又は元々の住居の住宅ローン・固定資産税の支援と、広域避難者の往来費用の支援、そして福島とその周辺地域の子ども達の保養費用支援、この3つについては今後も国と福島県に対して訴えていきたいと思っています。 最後にあらためて、NPO法人みんな地球のこどもじゃん、パパに会いたいプロジェクトのスタッフと支援くださる皆さまに御礼申し上げて、リポートとさせていただきます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ パパと時々しか会えない子どもたちがいます。 家族の時間を奪われた家族がいます。 その不安に寄り添ってください。 自分のこととしてどうか考えてください。 そして、出来ることなら少しだけ力を貸してください。
これまでに「パパに会いたいプロジェクト」で多くのご家族へパパを届けてきました。 そのメッセージをお読みください。 2015年4月29日~5月6日 森松様 【森松様 お父さんよりメッセージ】 4月29日、電話予約していた乗車券を受け取りに郡山駅へ。仕事帰りの磐越西線が30分遅延してヒヤヒヤしたが、いつもの窓口氏は感じ良く発券してくだ さった。元々は、新幹線で行く予定であったが、ギリギリで夜行バスの予約をとる事ができた。 5月1日の大阪行きのギャラクシー号だ。水曜どうでしょうという番組で地獄の夜行バスとして有名になった夜行バスだ。 妻子と別れて福島に残って3年11ヶ月、月に1回夜行バスで大阪と往復する生活を続けている。4年前、原発事故が起きた時、自宅も崩壊して水浸しになり、職場に1ヶ月家族で住み込んだ。その後、妻子を大阪へ一時避難させたところ、そこでの原発事故に対する評価と、福島県内での評価のあまりの違いに驚き、2011年6月に本格的に母子避難が始まったのだ。それ以後、大阪と福島を行き来している。以前は自家用車であったが、低覚醒運転による事故未遂からやめた。 5月1日、予定通りのバスに乗車。満席だった。水曜どうでしょうという番組では地獄の夜行バスと言われるギャラクシー号だが、私にとっては家族と再会できる天国への夜行バスなのだ。3列シートで深々リクライング。前後のシートピッチがもう少しあれば、なんの文句もない。 すでに東名高速道路は大渋滞。しかし、福島交通のバスはどうやったのか分からないが、いつの間にか渋滞をすり抜けて、吹田付近の渋滞につかまりながらも 少々遅れて大阪に到着。地下鉄と路線バスを乗り継いで家族と再会した。今回は、4月3日ぶりということもあり、息子が大歓迎してくれた。 娘はなんだか恥ずかしそう。昼ごはんを食べてから、3人で梅田や住之江公園へ出かけることにした。住之江公園の児童広場は娘がまた行きたいと言っていた場所。たいそうハッスルして遊んでいたが、すっころんで肘を怪我して終了。100円ショップで絆創膏を買ったり、100円ソフトクリームを買わされたりと楽しいゴールデンウイークだった。 たっぷり遊んで、子どもたちの精神状態も落ち着いたようだ。母親だけでは受け止められない子どもたちの気持ちを父親が解消できているか心配だが、今回はそれなりに長く居られたので満足したようだ。娘は、父親と餃子作りをしたかったようだから、次回にとっておこう。息子は、車で車中泊をしてみたいらしいから、郡山に連れてきた時にマイカーでどこかへ行って一緒にキャンプをしてみよう。子どもたちとやりたいことはいっぱいある。あとは、10年間連れ添ってくれてい る妻に感謝しないとあかんな。 【奥様よりメッセージ】 このたびは、【パパに会いたいプロジェクト】に応募させて頂きまして、本当にありがとうございました。我が家は4年前のGWの長期休暇をきっかけに、母子だけが福島を離れるという母子避難を決断することになりました。ですからGWには特別な思いがございます。(家族バラバラになることを決断した日でもあり、子どもたちにとっては試練の連続の日々でもありますから・・・) そのような中、今年の家族GWの家族再会は諦めかけていたのですが、こちらの【パパに会いたいプロジェクト】のおかげで、家族一緒に過ごすことが出来ました。 最近、荒れていた子どもたちも、家族が揃うと本当に落ち着いて、父母2人の目が行き届くと2人の子どもたちも穏やかに休暇を過ごすことが出来ました。 何気ない日常を、数日の間ではありましたが取り戻せました。本当にありがとうございます。 休暇が終わり、また一家離散の生活に戻りますが、また一緒に過ごせる日が来ることを信じて、何気ないあたり前の安全で平和な日常がある事自体に感謝しつつ母子避難を続けてまいりたいと思います。 今回のご支援、心から感謝申し上げます。3.11をさかいに、一家離散、家族バラバラになられたご家庭は我が家だけではないと思います。皆さまの善意と温かいお気持ちで今回家族再会が果たせましたが、このご支援にたどり着けていない多くの被災の皆さまにも等しくこのような支援が行き渡るよう、国の制度として確立してくださったら良いのになぁと思います。
2014年12月28日~2015年1月3日 パパに会いたいプロジェクト参加のYさんよりメッセージ 私は福島県須賀川市から、八歳女児と五歳男児を連れて、札幌で母子避難生活を続けています。主人は須賀川市の戸建てに住み、郡山市で仕事をしています。 主人に会うのは約3ヶ月ぶり、息子の幼稚園の運動会以来です。久しぶりに会った子供たちは少し恥ずかしそうに、口数も少なかったのですが、すぐにお父さんの取り合いが始まりホッとしました。 主人の滞在は六泊七日だったのですが、初詣に出掛けた位で、ごく普通に親子で雪遊びや家族団らんをして、あっと言う間に過ぎてしまいました。 家族4人で大晦日、元旦を迎え、当たり前の事なのですが、とても有りがたく、今皆元気で生きているとゆう事、家族で一緒にいられる事に改めて感謝しました。 主人の仕事、持ち家の事もあり、主人が札幌に来て家族で暮らす事は何時になるかは分かりません。1日も早く家族で暮らせるよう、また皆健康であるように祈る毎日です。 二重生活で苦しい生活の中、このようなご支援をして頂き本当に感謝しております。沢山の方々の支援、暖かい方々に出会い母子でもなんとか生活できております。 本当にありがとうございました。スタッフの方々、またまだ寒いです、お身体ご自愛下さい。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 子どもたちへパパを届けるために、皆様からのご支援が必要です。
それまでは、インドネシアの子どもたちが学校に行くための様々な支援を行ってきたみんな地球の子どもじゃんですが、東日本大震災後、その活動は一変しました。 なかでも、原発事故後の福島県から北海道への自主避難のアテンドでは、問い合わせから住宅の申請、許可取得、北海道までの同行と、その全てを行ってきたのですがそこで見た現実は、今でも頭から離れる日はありません。 その時、福島の人たちはどういう状況だったのか・・・ 当時、福島県全域は「災害救助法適用地位」に指定され、北海道だけで無く全国の自治体が、2年間家賃無償で、公営住宅などを開放し受け入れをしていました。 ところが、私たちが2011年5月に福島入りした時は、そのことをほとんど人が知らなかったのです。 そこで、その2日後に北海道庁へ行き交渉の結果、正式に受け入れ団体と認定され、北海道への避難を呼びかけることとなったのです。 呼びかけ人としてプロジェクトを牽引したのが、ラッパーで現在松戸市議会議員のDELIさん。 緊急を要する避難者受け入れに手順、決まり事を超え、尽力いただいたのが、当時北海道庁支援対策本部の今野徹さん。 そして、ともに福島県に入り現地で避難の方法があることを呼びかけたのが 参議院議員の「山本太郎」さんでした。子どもたちを何とかしなければと手探りの中、とにかく行動を起こすことが優先される状況だったのです。 これはその時避難を呼びかけた時、送られてきたメッセージです・・・ 2011年5月28日 いま私は福島県郡山市に住んでいます。原発事故から家の窓・通気口をテープでふさぎ週末は車で遠くに子供を遊びに連れてっています。 これから夏が来るのでここで閉めきりの生活も限界がくるのではと不安でいっぱいです。 まわりの同意もなかなか得られませんが北海道への一時避難も本気で考えています。 ただネックなのが家族と簡単に会える距離でないことや北海道への交通費やあちらでの生活用品の調達についてです。 今回の震災でパパの仕事もストップしてしまい貯蓄も使い果たしてしまいました。 それでもやはり子供を外で遊ばせられないこの環境が怖いので、なんとか必死で情報収集に毎日あけくれています。 0歳児を育てていくには不安で仕方ありません。 住宅ローンを組んだばかりですが命には代えられません。 可能であれば北海道への移住を希望しております。 こうした問い合わせが毎日届きました。 電話も朝から晩まで鳴りました。 避難当日の郡山駅前の光景・・・ 当日、郡山駅前で集合をするのですが、お会いしたこと無い家族でもすぐにわかります。 大きな荷物をかかえ、子どもたちはマスクをしています。 バスの前では、父親がいつまでも我が子を抱きしめ、バスの出る直前まで別れを惜しみます。これからはじまる2重生活をささえるため一人福島に残る父親たち。 必要とする人へ情報を届けたにすぎない私に向かい、2歳くらいの小さな女の子を胸 に抱きしめながら「この子をお願いします」と、何度も何度も頭を下げるその光景が、一日足りとも私の頭から消える日はありません。 そこから仙台港へ行き、フェリーに乗り込み15時間をかけ苫小牧へ、さらに移動して目的の住宅へ。 ひと月に一度、支援が打ち切られる、2012年の年末まで私はこうした光景を見て来ました。 あの子はどうしているだろう、あのパパはどうしているだろう・・・ あの時した選択は人それぞれです。 どちらも正しいとか間違っているとか言うことは出来ません。 しかし、私が目にした現実は引き裂かれる家族です。 私にも小さな子どもが3人います。震災以降生まれた子どもたちです。 家族と過ごす時、眠りにつく時、考えるのです。 我が子の成長を近くで見守ることの出来ない父親を 新しい土地でひとりで小さな子どもを育てる母親を パパに甘えることが出来ない子どもたちを・・・ 子どもたちにパパを届けたい・・・ 今、行っている「パパに会いたいプロジェクト」は、福島に残る父親が、移住先の家族へ会いに行くための交通費支援です。 そうした現実があることを、このプロジェクトを通じて発信し続けなければならないと私は思っています。 ご家族から寄せられるメッセージには、数ヶ月ぶりに、一年ぶりにパパと過ごす子どもたちの姿、喜び、悔しさが書かれています。 この小さな声を、伝えなければならないのです。 そして、そこから自分のこととして考えた時に、大切な人のため、何をするべきかを、ひとりひとりが考えるところから、新しい未来が開けるのだと思うのです。 私が今家族とともに過ごせていることは、奇跡であり、これほどの幸せはこの世にありません。 「私たちは何をするべきか」 大切な誰かと離れなければならないとき、あなたはどういう決断をしますか? どうか力を貸してください。 子どもたちにパパを届けさせてください。
このたび、クラウドファンディングに挑戦している「パパに会いたいプロジェクト」は、原発事後、みんなちきゅうの子どもじゃんで行った、福島から北海道への自主避難のアテンドで、そのほとんどが母子避難であり、父親は被災県に一人残り生活を支えていることから、家族の時間を届けたいとはじまったプロジェクトです。 当時、私のもとへはたくさんの非難に悩む母親からの問い合わせがありました。 その心境が、状況がどんなものであったのかを当時の問い合わせを見て頂きたいと思います。 どれほど多くの母親が苦悩し、それでもわが子の命を守りたいと避難に至ったのかを・・・ ほんの一部ですがこれが現実です。※プライバシーを考慮し一部省略、抜粋しております。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 震災がおきてからずっと避難をしたくても、旦那の許しが出ず悩んでいました。けど私は娘のことを考えたら避難と言う気持ちと意思が日に日に強くなり、旦那の許しは最後まで得ることができないまま避難と言う形をとる事に決めました。 不安はたくさんありますが自分がした選択は、間違っていないと思っています。 今の福島イコール放射能と言うイメージが強い中、時折りテレビで見る福島に対しての差別的な事もあるので、新しい土地での生活はとても不安です。しかし子どもを守ってあげれるのは親の私しかいません。 母子疎開に対してももっと国が積極的に動いて欲しいものです。 放射能は目に見えないものなのかもしれないけど国も東電も認識が甘すぎるしたった一度の補償金、私たち福島県民に何の誠意も伝わってないし、あまりにも無責任すぎると思います。 今回NPO法人みんな地球の子どもじゃんの方には親切な対応と心配りをして頂き心より感謝しています。ありがとうございました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ユーチューブの山本太郎さんのメッセージを見ました。 何度も何度も。 茨城県取手市に住んでいます。 子供が怖がるのでニュースも見ず、ニュースを見ても訳が分からないし、信用できないし、で見ず、怖いとは思いながら、普通に生活しています。 洗濯物は外には干していません。 水道水は飲んでません。 ミネラルウォーターを買っています。 大変な出費ですが、子供に水道水を飲ませたくないから仕方ないです。 関東圏の野菜は買いません。 大丈夫とテレビが言うのは嘘やと思うので。 茨城も被災地になりますか? 3.11日は食器棚が倒れ、電子レンジも落ち、冷蔵庫も壊れました。 子供と2人で近くの小学校に居させてもらいました。 寒い会議室でした。 北海道行きたいです。 どこでもいいです。 ここから離れたいと強く思います。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・私は福島県郡山市に住む三人の男の子の母親です。 今は知り合いのところにいますが、長くはいれず子どもの学校のこともあり、どうしたらいいのか精神的にも追い詰められ、生きてくのも辛いです。 郡山市にマイホームがあり、金銭的にも長く自力で避難は無理です。 私と子ども達だけでもどこかへ行きたいと考えています。 毎日子ども達の体のことを考えると気が変になりそうです。 お願いです。助けてください。 二男は体力がない子なので毎日母親の私が不安定になってしまい、子どもも精神的に限界にきています。どうかお力を貸して下さい・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・この状況から変わった場合、ホットスポットと呼ばれる流山市在住の子どもたちも疎開の対象になる可能性はありますか? ホットスポットは原発に近いいわきなどの地域と変わらない汚染状況だと言われていて、市民の要望があまりに多いため、市長が動きました。以下です。 【柏市と流山市は、松戸市、野田市、我孫子市、鎌ヶ谷市に呼びかけ、計6市により5月17日に千葉県知事に対して放射線量の測定等についての要望書を提出しました。】もちろん結果が出てからのことですが・・ 私は実家が仙台市、主人は会津若松市です。実家には頼れる状況ではなく・・・千葉県知事の決定・測定結果が出るのがいつになるのかわからない状況でのメール、すみません。ご迷惑だと思いながらも・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 今年から幼稚園に入園した3才の息子がおります。 流山市では現在ホットスポットという状態で、福島の郡山まではいかないのですが、白河などと同等の放射腺物質が停滞してしまっています。 濃度が高いにも関わらず、市は独自に計測すらしてくれず、公園も地域もそのまま日常が展開していっています。 家の中を拭き掃除し、大切に育てた庭の植物を抜き、無農薬の家庭菜園も食することなく、水や食べ物に気をつけ、公園での遊びも避けている状態です。 子供にとっても宝物でもある日々の水たまり遊びや、泥んこ遊び、タンポポ摘みでさえ、「それはダメだよ」と諭し、にこやかに見守ってあげることもできません。 回りには気にしすぎと言われたりしますが、数値として出ているのです。 ようやく授かった大切な息子を5年後、10年後、不安と共に見守っていかなければなりません。ほんの少しでもいいから、夏休みの間だけでもいいから、放射能の心配のない地域に離れたい、毎日の被爆から休ませてあげたいというのが本音です。 ただ、我が家は小さな自宅を購入後に不景気に突入してボーナスは0、車すら持ってないようなうちなので、日々の生活だけで精一杯…、引っ越し代も旅行費でさえ出せません。 こういった地域や家庭は、対象とはならないのでしょうか…。親戚はみんな近辺の地域にいるので頼れません。福島の地域と同等の放射線なのに…。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4人の子を持つ親です。放射能を心配しながら、毎日学校に送り出し、これでいいのかと自問する日々です。 換気もままならず、子供たちが咳き込むようになっています。 そこで夜な夜なせめて夏休みだけでも、子供に思いっきりおいしい空気を吸わせたいと調べていたら、このページにたどりつきました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小学校の校庭の放射線量は1.45~1.90で福島市や郡山市に比べると数値的には低いと思います。しかし、この『他より低い』という理由で校庭の表土を除去してもいない時点で、毎日屋外活動が行われています。こちらはだんだん暑くなってきまして、児童の大半が半袖とショートパンツ。 マスクをしな児童も多く、その上校庭で寝そべる、植物を摘む、雨上がりだろうが、お構いなしです。しかも、体操服がどんなに汚れようとも、持ち帰るのは週末のみ。そんな中うちの子供が校庭で転んでひざをすりむき、学校へ意見をしました。以来、長パンツという改善をしてくれましたものの、屋外活動は続行。その後、長パンツなら良いという問題ではないことを指摘しましたら昨日校長先生に呼び出されまして、『子供を出したくて出しているのではない』職員全員と熟考の末、現時点の子供たちのメンタル面を尊重することにしたそうで『屋外活動やむなし』との説明を受けました。 子供達の健康よりも、つまりは学校側の都合という点に憤りを感じてはおりますが、現在の政府を見ていると福島県の教育関係者もまた、見放された被害者なのだと思います。給食はもちろん地産地消推進なので、規制値を底上げされた偽りの『安全食材』を使用されています。無味無臭、放射線に対して知識の乏しい子供達に自衛する術はありません。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3歳のこどもがおり、毎日幼稚園に通っています。 毎日毎日、こどもの将来を考えては悩み、眠れない日々です。 今の状況を変えるデメリットのほうが、避難することより負担が大きいのでは?実はそこまでおおげさに考えなくてもまだいいのでは?など、考えがつきません。 とりあえず第一歩として、お問い合わせさせていただきました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・原発事故から家の窓・通気口をテープでふさぎ週末は車で遠くに子供を遊びに連れてっています。 これから夏が来るのでここで閉めきりの生活も限界がくるのではと不安でいっぱいです。 まわりの同意もなかなか得られませんが北海道への一時避難も本気で考えています。ただネックなのが家族と簡単に会える距離でないことや北海道への交通費やあちらでの生活用品の調達についてです。 今回の震災でパパの仕事もストップしてしまい貯蓄も使い果たしてしまいました。 それでもやはり子供を外で遊ばせられないこの環境が怖いので、なんとか必死で情報収集に毎日あけくれています。