3月18日土曜日。午前中は、毎月一回楽しみにしている「平野塾~八文字カフェ」(八幡空襲を語り継ぐ会。空襲体験者の方だけでなく、様々な方が参加されています。参加自由・予約なしでオッケーです。八幡東区の平野市民センターで行われています。)に参加しました。午後は資料室の壁塗り。壁塗りしながら、八文字カフェで聴いたFさんのお話が、私の頭の中でぐるぐる回っていました。Fさんのお話とは…Fさんは、八文字カフェに初めて参加されたそうです。そのFさんが語ったのは、家族(特に弟さん)の話でした。Fさんのお父さまは、弟さんがお母さまのお腹の中に居る時に出征されたそうです。弟さんが誕生して、会えることをとても楽しみにしていたお父さま。叶わぬ思いを残して出征したというわけです。そんなお父さまも、戦地で誕生の知らせを聞き、戦地から弟さんに名前をプレゼントされたそうです。日本に帰り、家族で暮らすことを望んでいたであろうお父さまですが、残念ながら戦地(中国)で病死され、二度と故郷の土を踏むことはありませんでした。Fさんは、お父さまの訃報を受け取った時のお母様の様子を覚えておられました。「母は、弟の足を洗ってあげていました。『お父さんが死んだぁ・・・。どうしようかぁ・・・。』そう言って弟の足を洗っている姿を覚えています。」「女一人で育ててくれました。貧乏しましたよ。父は、『子どもには学問をさせてやらんな。』と言っていましたが、そんな余裕はありませんでした。父が死んだので、みんな、無学です。でも、私たち兄弟は親孝行に育ちました。『お母さんの愛情いっぱいやったけね。』と、私たちは言っています。」それからFさんは弟さんの話を始めたのです。「弟は、『中支(中国中部)に学校を建ててほしい。』と、コツコツ働いて貯めたお金と退職金を寄付しました。」「学校が開校する時には招待されて、兄弟みんな行きましたよ。旗やら太鼓やら、それはもう、すごかったです。」と言って、その時の写真を見せてくださいました。「弟は、普段は質素な生活をしていました。控えめな人でした。山が好きでカトマンズとかの山に登っていました。」「すばらしい人間でした。」私はお話を聴きながら、「どうして大好きなお父さまが戦った中国の子ども達のために、学校を。と、考えたのだろう?』と、ずっと考えていました。カフェが終わって、帰る準備をされているFさんに、私は思い切って尋ねました。「今日は、お話をありがとうございました。一つお聞きしたいのですが、・・・弟さんはどうして中国に学校を建てようと思われたのでしょうか?大好きなお父さまが戦った相手。そして亡くなられた『中国』は、憎いという気持ちがなかったのでしょうか。」Fさんは、おっしゃいました。「どうしてかしらねぇ。昔から、『中国に学校を建てたい』って言っていたんですよ。その思いを叶えることができて死ねたから、うれしかったと思います。」私は考えました。「子ども達に学問を。」と言っていたお父さまの思いが、弟さんの心の中に生きていたのでしょうか。亡くなられたお父さまの眠っている土地で、お父さまの願いを叶えたかったのでしょうか。弟さんに会ってお話したかったなぁ。と思いました。真実は分かりませんが、私には、人間のすごさを改めて考える機会になりました。常に『戦争はどうやったらなくせるのか』と考えている(笑)私には、「心」「愛情」とかそういう目に見えないものが、「平和的行動」を産むのではないかと思えました。憎しみを越えて同じ人間として相手を大事に思う心を私たち人間は持つことができる、ブレることなく、価値あるものを見極める能力を持つことができる。それが人間のすごさではないか。と、思います。「心」「愛情」があるがゆえに、「破壊的行動」が生まれることもある。・・・とも考えました。(自分のことを振り返っても、よろしくない行動をしてしまう(してしまった)ことがあります。難しいものです(笑)。)戦争を起こすのも、止めるのも、やめるのも、無くすのも人間。「心」のある人間。「平和的行動の土台になる「心」を耕せる資料室にしたいなぁ。」と、強く思いながら、暗くなるまでかかって壁塗りを終えました。ーーー



