「北九州平和資料館」閉館…「戦争」を知り、「平和」を感じ、考える場所を残したい

北九州市若松区にある「北九州平和資料館」は、戦時遺品などの展示物を手に取って見られる私設資料館。戦争の加害者にも被害者にもならないようにと、両面からの展示をしている。そんな資料館の閉館決定後、ウクライナで戦争が始まった。同時に軍備増強に向かう国の動き…。戦争の真実を知り、考える場所を残さなければ!

現在の支援総額

3,037,500

75%

目標金額は4,000,000円

支援者数

204

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2022/09/01に募集を開始し、 204人の支援により 3,037,500円の資金を集め、 2022/10/31に募集を終了しました

「北九州平和資料館」閉館…「戦争」を知り、「平和」を感じ、考える場所を残したい

現在の支援総額

3,037,500

75%達成

終了

目標金額4,000,000

支援者数204

このプロジェクトは、2022/09/01に募集を開始し、 204人の支援により 3,037,500円の資金を集め、 2022/10/31に募集を終了しました

北九州市若松区にある「北九州平和資料館」は、戦時遺品などの展示物を手に取って見られる私設資料館。戦争の加害者にも被害者にもならないようにと、両面からの展示をしている。そんな資料館の閉館決定後、ウクライナで戦争が始まった。同時に軍備増強に向かう国の動き…。戦争の真実を知り、考える場所を残さなければ!

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2月16日。元平和資料館の館長の知人で、閉館の時に手伝いに来てくださったIさんが、電気工事に来てくださいました。聞けば、ベトナム旅行帰りで体調があまりよくなかったようです。それなのに、車で1時間半もかけて来てくださいました。実は、資料室のリフォームで、私たち素人の力ではどうしようもできないことの一つに「電気工事」がありました。電気やコンセント…どうすれば?先月末。その心の重荷を解決するメールが、Iさんから、突然届きました。「資料館の準備は進んでいますか?私も何かお手伝いしますよ。ちなみに、電気工事の資格を持ってます!」Iさんは、「ぼくは、人を笑顔にすることが好きなんですよ~」と言われます。とてもキレイな目をしていて、ひょうきんです。(だいぶ先輩に失礼ですが。)いっしょにいると、まわりに花が咲くように明るくなります。お陰さまで、昨日は、いつもより楽しく作業できました。そして今日。ボランティアで行っている河伯洞からの帰りに、資料室に寄ったのですが…。門の前に工具が!「えっ?Iさんが?」実は、相方が、トイレのドアをつけるためにコンクリートをはつっています。機械を持っていないし、買うのはもったいないので、コンクリート用のハンマーで、少しずつ少しずつ砕いています。その姿を見て、「少しでも苦労を緩和できたら」と、わざわざ持ってきてくださったのでした!往復3時間。「衰えを感じますねぇ」と言っていたIさんの顔を思い出すと、涙が溢れてきました。感謝の気持ちでいっぱいです。Iさんのように「相手の立場で考える」ことが、戦争を無くす道だと信じています。資料室にIさんのようにお手伝いに来てくださる方、道具を持って来てくださる方、励ましの言葉をかけてくださる方…たくさんいます。だから、がんばれます。どなたか、エアコンの取り付けができる方、居ませんかぁ~?(笑)


2月16日(水)。福岡女学院大学からの依頼を受けて、元平和資料館館長の小野さんが門司区にある戦跡(蕪島の特攻艇基地)のガイドをされることに。その小野さんから声をかけていただき、同行することができました(笑)。午前中は、小倉の「北九州平和ミュージアム」へ。大学の先生と学生さんの下調べによる「美味しいサンドイッチ」屋さんで買ったサンドイッチをバスの中で食べて、蕪島に出発。バスの中で、「北九州平和ミュージアム」を観覧した感想をシェア。(どの学生さんも感じたことをしっかりと伝えてくださいました。準備中の資料館の展示に生かせる内容で、大変有り難かったです!)久しぶりの蕪島(かぶらじま)。ここは、戦争末期、陸軍の㋹艇と呼ばれる特攻艇が隠されていた場所です。沖縄が全滅して、米軍の本土上陸も時間の問題というわけで、米軍の上陸を防ぐためにと準備されたのが㋹艇です。㋹艇は、自動車のエンジンで動くベニヤ板で作られた簡易舟。250㎏の爆弾を積んで敵の上陸用の船に突っ込んでいくために作られました。写真(↑)右側の小島には、グルっと何個かの穴が掘ってあります。また、写真(↑)左側に進むと海岸にそって岸壁に4~5個の穴が掘ってあります。この穴に、㋹艇が隠されていたのです。もちろんこの特攻艇。「人」が乗って動かします。ここでは、宮崎出身の16歳から24歳くらいの兵隊40人ほどが訓練を受けていたそうです。  小野さんが言われました。「遠くに見える船が『軍艦』だと思ってください。あの軍艦に向かって突っ込んでいくんです。『おかあさ~ん』と、大切な人の名前を叫ぶとか、『わあー!』と叫ぶとかしなければ、なかなかできるものではなかったのではないでしょうか。死にに行くのですから。」その言葉に、学生さんたちはみんな沖の方に目をやりました。同じ年頃の若者が、80年近く前は、この地で「死」を覚悟して海を見ていました。今日(2023年2月15日)は、「私は山で生まれ育ったので、海に来れてうれしいです。海っていいですね。」と、幸せを感じながら海を見ていました。純粋に「地球」や「命」のすばらしさを感じながら生きたいな。今の平和を繋いでいかなくては。と、思いました。「必ず新しい資料室に行きますね。」と、約束して別れました。また、明日から資料室の準備、がんばります。


窓が開きました
2023/02/12 20:42

2月10日(金)。親方さんが来てくださいました。窓を開けるために。建材を切るときに出る「粉」で、全身真っ白にしての作業。感謝です。出来上がったときは、思わず叫んでしまいました。低い窓からは、日炭高松の坑口があった辺りが見えます。生活のため国のためと、暗い坑内で石炭を掘った先人。最も危険な場所で働かされた、朝鮮半島から来た人たち。逞しく生きた女性たち。…「今」を大切に生きるために、「過去」に思いを馳せる。そんな場所になりました。次、親方さんが来られるのは、3月末か4月はじめ。それまでにできることを習いました。「にわか大工」がんばります。


先週から、「棚」のことを考えています。前の家主さんが使っていた「棚」をリフォームして、展示棚、本棚、カウンターを作るつもりです。(とことん「ある物」を使う精神!)今日、窓の付け方を教えに、親方さんが来てくださる予定です。棚の設置や、その他たくさん、悩んでいることがあるので、尋ねてみようと思っています。さて。2月7日(火)。とても元気をいただける出来事がありました。井手川泰子さん(90)に会って、お話を聴くことができたのです。井手川さんは、筑豊の元炭鉱労働者だった女性たちにお話を聴き、書き残す活動をしてこられた方です。80人以上もの元女抗夫のお話を聴いたそうです。私が知り合いに紹介されてこの本を読んだのは、去年の11月頃だったと思います。その時は、「炭鉱労働」がどんなものであったのかを知りたくて読んだので、正直、井手川さんのことよりも、働いていた女性の様子や生き方ばかりに気を取られていました。しかし今回井手川さんに直接お会いして、お話する機会をいただき、「井手川康子」という一人の人間に感銘を受けました。自分も、少しでも井手川さんに近付きたいと思いました。井手川さんは、小倉での空襲を経験されていました。B29による日本初空襲となった1944年6月16日の深夜の空襲です。小倉の砂津にあった自宅近くに爆弾が落とされ、一軒隣の友達の家に直撃で家族全員亡くなったそうです。(この時、小倉陸軍造兵廠でも学徒動員で働いていた10代の若者など80人もの命が奪われました。)自分が生かされたこと。ここが原点だと話されていました。子どもだった井手川さんは、しばらくは空襲の話ができなかったそうです。そんな井手川さんの話を聴いてくれたおばあちゃんとの出会い。そこから人と話ができるようになったと、井手川さんはおっしゃっていました。お話上手でお話好きな様子からは、そんな過去があったのかとはとても思えませんでした。そんな井手川さん。初めは、働きながら、元女坑夫の聞き書きをしていました。が、ある年。一度に6人もの方が亡くなり、働きながら聞き書きを続けていたのでは間に合わない。と思い、仕事を辞めることにしたそうです。「『我が家の民主化闘争』の始まりですよ。」と、元気に話してくださいます。ちょっと楽しそうにすら見えます。「『車がほしい』といったら、『そんな、アレがないとできない。コレがないとできない。とかいうものなら、辞めてしまえ!』と、夫に言われたの。それで余計にやる気になってね。(笑)」「歩き通したわ。」90歳になる井手川さん。背筋もピンとしていて、足取りもしっかりとしておられます。(戸畑駅まで電車に乗ってお一人で来られるというので、改札口に迎えに行ったのですが、違う方に声をかけてしまい、自分では見つけられなかったほどです。)「だから、お元気なんですね。」思わず口から出てしまいました。でも、「我が家の民主化闘争」は、そんな笑えるものではなかったのではないでしょう。思わず自分と重ねて考えてしまいました。自分が「資料館を引き継ぎたい。」と夫に言った時のこと。それから不動産探しをしていた1年近くの間のこと。リフォームをし始めてからのこと。・・・「私は私。私の人生を歩みたい。歩もう。」理解してもらっていないと感じた時には、そう、自分に言い聞かせました。もちろん、家族のこともひっくるめての「私」であることは分かっているし、そうありたいとも思っています。でも、「私」があって「家族」がある。それぞれの人格をまずは尊重し合う前提での家族でありたいと思うのです。井手川さんに言われました。「まずは自分の人権宣言をしないとね。」なるほど。「私は私でいたい」と言うことが、私の人権宣言ということなんですね。井手川さんの送迎係をしている友人の車に乗せてもらったので、車内でも井手川さんとお話することができました。(なんとラッキーな!!)井手川さんのお人柄が分かるほっこりしたお話もたくさん聴かせていただきました。そして、元気が出る言葉もいただきました。「みんながおしゃべりできる『核』となる場所がいるんですよ。」平和資料室をそんな場所にしたいです。時々お手伝いに来てくださる方々と、ちょこっとですが、そんな場所になりつつあるなぁ~。とうれしくなりました。貴重な貴重な、もったいない一日のことを心に留め、がんばります。追伸筑豊の元女坑夫たちもすごいです!よかったら、「火を産んだ母たち」読んでみてください。


2月4日(土)。山口県宇部市の床波で行われた「長生炭鉱水没事故犠牲者追悼集会」に参加しました。たくさんの参加者の中に、日本と韓国の高校生が混じっていました。その中の日本の高校生(3年生)のメッセージ。「時代の流れや単語を覚え、テストでいい点を取ることが歴史教育だと勘違いしている人が多い現状です。しかし、本当に大切なのは、その歴史の資料を読み解き、別の読み取り方を考えてみたり、その歴史を様々な国の視点から考えてみたり、それら個人個人の考えを自分で表現することが、真の歴史教育であると私は考えています。」「大学では、地域の遺産や歴史から新たな日本の歴史教育を考え、偏見や差別のない平和な世界を作るためにどうすればよいか研究していきたいと思いました。」「『長生』は、そんなことを与えてくれた(気付かせてくれた)大切な場所です。平和のために私たちは、この歴史を必ず語り継いでいかなくてはならないと考えています。」ゆっくりと一言一言嚙みしめるように伝えていました。目頭が熱くなりました。希望を感じ、うれしくなりました。同時に、自分と重ねて考えていました。学生のころ。歴史の勉強が嫌いでした。暗記が苦手な私は、いつも「テストのために」必死でした・・・苦痛でしかありませんでした。そこに生きた人に思いを寄せることなど、皆無でした。・・・歴史の大切さに気付くことができてよかった!今、歴史の事実を知り、本当の平和を求めて考えて行動している自分に、幸せを感じています。さて。長生炭鉱のことを。美しい海に、今も残るピーヤ長生炭鉱は、「海底炭鉱」でした。1942年2月3日(太平洋戦争が始まって2か月)朝、坑口からおよそ1㎞付近の坑道の天板が崩壊して海水が侵入し、働いていた人たち183人が亡くなりました。そのうち136人が、当時日本が植民地として支配していた朝鮮半島から来た人でした。それらの人々は、生活苦から日本に働く場を求めて来た人や日本の労働力として強制連行された人たちでした。日本が戦争を遂行するために、危険を承知で石炭を掘り続けさせて起きた事故でした。今も犠牲者全員のご遺体は放置され、冷たい海の底に眠ったままなのです・・・。追悼式があっている間、残念ながらお日様の光はなく、寒かったです。でも、たくさんの方が祈りを捧げていました。戦争は人災です。戦争は、人間の力で防ぐことができるものです。戦後、葬られそうになった長生炭鉱の事実は、市民の力で日の目を見、明らかにされました。過去の歴史を知り、反省するという、人間として正しい姿勢や心の在り様がこの場所をつくったのだと思います。「本当の平和をつくるためには、どうすればよいのか。」と考えた結果が、長生炭鉱の事実を伝える活動であり、韓国や朝鮮の方々との交流・対話なのだと思います。国籍を問わず参加している方々の姿を見ながら、「本当の平和をつくるために必要なのは、武器ではない」と、改めて思いました。この土日。日本と韓国の高校生たちは、共に過ごすそうです。画像キャプション


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