2月16日(水)。福岡女学院大学からの依頼を受けて、元平和資料館館長の小野さんが門司区にある戦跡(蕪島の特攻艇基地)のガイドをされることに。その小野さんから声をかけていただき、同行することができました(笑)。午前中は、小倉の「北九州平和ミュージアム」へ。大学の先生と学生さんの下調べによる「美味しいサンドイッチ」屋さんで買ったサンドイッチをバスの中で食べて、蕪島に出発。バスの中で、「北九州平和ミュージアム」を観覧した感想をシェア。(どの学生さんも感じたことをしっかりと伝えてくださいました。準備中の資料館の展示に生かせる内容で、大変有り難かったです!)久しぶりの蕪島(かぶらじま)。ここは、戦争末期、陸軍の㋹艇と呼ばれる特攻艇が隠されていた場所です。沖縄が全滅して、米軍の本土上陸も時間の問題というわけで、米軍の上陸を防ぐためにと準備されたのが㋹艇です。㋹艇は、自動車のエンジンで動くベニヤ板で作られた簡易舟。250㎏の爆弾を積んで敵の上陸用の船に突っ込んでいくために作られました。写真(↑)右側の小島には、グルっと何個かの穴が掘ってあります。また、写真(↑)左側に進むと海岸にそって岸壁に4~5個の穴が掘ってあります。この穴に、㋹艇が隠されていたのです。もちろんこの特攻艇。「人」が乗って動かします。ここでは、宮崎出身の16歳から24歳くらいの兵隊40人ほどが訓練を受けていたそうです。 小野さんが言われました。「遠くに見える船が『軍艦』だと思ってください。あの軍艦に向かって突っ込んでいくんです。『おかあさ~ん』と、大切な人の名前を叫ぶとか、『わあー!』と叫ぶとかしなければ、なかなかできるものではなかったのではないでしょうか。死にに行くのですから。」その言葉に、学生さんたちはみんな沖の方に目をやりました。同じ年頃の若者が、80年近く前は、この地で「死」を覚悟して海を見ていました。今日(2023年2月15日)は、「私は山で生まれ育ったので、海に来れてうれしいです。海っていいですね。」と、幸せを感じながら海を見ていました。純粋に「地球」や「命」のすばらしさを感じながら生きたいな。今の平和を繋いでいかなくては。と、思いました。「必ず新しい資料室に行きますね。」と、約束して別れました。また、明日から資料室の準備、がんばります。
2月10日(金)。親方さんが来てくださいました。窓を開けるために。建材を切るときに出る「粉」で、全身真っ白にしての作業。感謝です。出来上がったときは、思わず叫んでしまいました。低い窓からは、日炭高松の坑口があった辺りが見えます。生活のため国のためと、暗い坑内で石炭を掘った先人。最も危険な場所で働かされた、朝鮮半島から来た人たち。逞しく生きた女性たち。…「今」を大切に生きるために、「過去」に思いを馳せる。そんな場所になりました。次、親方さんが来られるのは、3月末か4月はじめ。それまでにできることを習いました。「にわか大工」がんばります。
先週から、「棚」のことを考えています。前の家主さんが使っていた「棚」をリフォームして、展示棚、本棚、カウンターを作るつもりです。(とことん「ある物」を使う精神!)今日、窓の付け方を教えに、親方さんが来てくださる予定です。棚の設置や、その他たくさん、悩んでいることがあるので、尋ねてみようと思っています。さて。2月7日(火)。とても元気をいただける出来事がありました。井手川泰子さん(90)に会って、お話を聴くことができたのです。井手川さんは、筑豊の元炭鉱労働者だった女性たちにお話を聴き、書き残す活動をしてこられた方です。80人以上もの元女抗夫のお話を聴いたそうです。私が知り合いに紹介されてこの本を読んだのは、去年の11月頃だったと思います。その時は、「炭鉱労働」がどんなものであったのかを知りたくて読んだので、正直、井手川さんのことよりも、働いていた女性の様子や生き方ばかりに気を取られていました。しかし今回井手川さんに直接お会いして、お話する機会をいただき、「井手川康子」という一人の人間に感銘を受けました。自分も、少しでも井手川さんに近付きたいと思いました。井手川さんは、小倉での空襲を経験されていました。B29による日本初空襲となった1944年6月16日の深夜の空襲です。小倉の砂津にあった自宅近くに爆弾が落とされ、一軒隣の友達の家に直撃で家族全員亡くなったそうです。(この時、小倉陸軍造兵廠でも学徒動員で働いていた10代の若者など80人もの命が奪われました。)自分が生かされたこと。ここが原点だと話されていました。子どもだった井手川さんは、しばらくは空襲の話ができなかったそうです。そんな井手川さんの話を聴いてくれたおばあちゃんとの出会い。そこから人と話ができるようになったと、井手川さんはおっしゃっていました。お話上手でお話好きな様子からは、そんな過去があったのかとはとても思えませんでした。そんな井手川さん。初めは、働きながら、元女坑夫の聞き書きをしていました。が、ある年。一度に6人もの方が亡くなり、働きながら聞き書きを続けていたのでは間に合わない。と思い、仕事を辞めることにしたそうです。「『我が家の民主化闘争』の始まりですよ。」と、元気に話してくださいます。ちょっと楽しそうにすら見えます。「『車がほしい』といったら、『そんな、アレがないとできない。コレがないとできない。とかいうものなら、辞めてしまえ!』と、夫に言われたの。それで余計にやる気になってね。(笑)」「歩き通したわ。」90歳になる井手川さん。背筋もピンとしていて、足取りもしっかりとしておられます。(戸畑駅まで電車に乗ってお一人で来られるというので、改札口に迎えに行ったのですが、違う方に声をかけてしまい、自分では見つけられなかったほどです。)「だから、お元気なんですね。」思わず口から出てしまいました。でも、「我が家の民主化闘争」は、そんな笑えるものではなかったのではないでしょう。思わず自分と重ねて考えてしまいました。自分が「資料館を引き継ぎたい。」と夫に言った時のこと。それから不動産探しをしていた1年近くの間のこと。リフォームをし始めてからのこと。・・・「私は私。私の人生を歩みたい。歩もう。」理解してもらっていないと感じた時には、そう、自分に言い聞かせました。もちろん、家族のこともひっくるめての「私」であることは分かっているし、そうありたいとも思っています。でも、「私」があって「家族」がある。それぞれの人格をまずは尊重し合う前提での家族でありたいと思うのです。井手川さんに言われました。「まずは自分の人権宣言をしないとね。」なるほど。「私は私でいたい」と言うことが、私の人権宣言ということなんですね。井手川さんの送迎係をしている友人の車に乗せてもらったので、車内でも井手川さんとお話することができました。(なんとラッキーな!!)井手川さんのお人柄が分かるほっこりしたお話もたくさん聴かせていただきました。そして、元気が出る言葉もいただきました。「みんながおしゃべりできる『核』となる場所がいるんですよ。」平和資料室をそんな場所にしたいです。時々お手伝いに来てくださる方々と、ちょこっとですが、そんな場所になりつつあるなぁ~。とうれしくなりました。貴重な貴重な、もったいない一日のことを心に留め、がんばります。追伸筑豊の元女坑夫たちもすごいです!よかったら、「火を産んだ母たち」読んでみてください。
2月4日(土)。山口県宇部市の床波で行われた「長生炭鉱水没事故犠牲者追悼集会」に参加しました。たくさんの参加者の中に、日本と韓国の高校生が混じっていました。その中の日本の高校生(3年生)のメッセージ。「時代の流れや単語を覚え、テストでいい点を取ることが歴史教育だと勘違いしている人が多い現状です。しかし、本当に大切なのは、その歴史の資料を読み解き、別の読み取り方を考えてみたり、その歴史を様々な国の視点から考えてみたり、それら個人個人の考えを自分で表現することが、真の歴史教育であると私は考えています。」「大学では、地域の遺産や歴史から新たな日本の歴史教育を考え、偏見や差別のない平和な世界を作るためにどうすればよいか研究していきたいと思いました。」「『長生』は、そんなことを与えてくれた(気付かせてくれた)大切な場所です。平和のために私たちは、この歴史を必ず語り継いでいかなくてはならないと考えています。」ゆっくりと一言一言嚙みしめるように伝えていました。目頭が熱くなりました。希望を感じ、うれしくなりました。同時に、自分と重ねて考えていました。学生のころ。歴史の勉強が嫌いでした。暗記が苦手な私は、いつも「テストのために」必死でした・・・苦痛でしかありませんでした。そこに生きた人に思いを寄せることなど、皆無でした。・・・歴史の大切さに気付くことができてよかった!今、歴史の事実を知り、本当の平和を求めて考えて行動している自分に、幸せを感じています。さて。長生炭鉱のことを。美しい海に、今も残るピーヤ長生炭鉱は、「海底炭鉱」でした。1942年2月3日(太平洋戦争が始まって2か月)朝、坑口からおよそ1㎞付近の坑道の天板が崩壊して海水が侵入し、働いていた人たち183人が亡くなりました。そのうち136人が、当時日本が植民地として支配していた朝鮮半島から来た人でした。それらの人々は、生活苦から日本に働く場を求めて来た人や日本の労働力として強制連行された人たちでした。日本が戦争を遂行するために、危険を承知で石炭を掘り続けさせて起きた事故でした。今も犠牲者全員のご遺体は放置され、冷たい海の底に眠ったままなのです・・・。追悼式があっている間、残念ながらお日様の光はなく、寒かったです。でも、たくさんの方が祈りを捧げていました。戦争は人災です。戦争は、人間の力で防ぐことができるものです。戦後、葬られそうになった長生炭鉱の事実は、市民の力で日の目を見、明らかにされました。過去の歴史を知り、反省するという、人間として正しい姿勢や心の在り様がこの場所をつくったのだと思います。「本当の平和をつくるためには、どうすればよいのか。」と考えた結果が、長生炭鉱の事実を伝える活動であり、韓国や朝鮮の方々との交流・対話なのだと思います。国籍を問わず参加している方々の姿を見ながら、「本当の平和をつくるために必要なのは、武器ではない」と、改めて思いました。この土日。日本と韓国の高校生たちは、共に過ごすそうです。画像キャプション
さて。これは何でしょう?そうです。氷です。1月25日(水)。資料室のバケツの水が凍っていました。厚みが2~3cmもありました!そんな寒い週末でしたが、娘と親方さんが天井作りと屋根の拡張工事に来てくれました。二人で上と下に分かれて手際よく作業を進めていました。一見、ただのトタンに見えますが、ちょっと違います。片面にスポンジのような物が貼ってあるんです。親方さん曰はく、「普通のトタンだと、結露してポタポタ水滴が落ちて来るけど、コレはスポンジがあるから大丈夫!」つまり、資料が濡れることがないということです。もともとの屋根がガルバリウムのトタンなので、普通の天井板を貼ると結露によって、そのうち天井板が腐る可能性があるということで、このスポンジ付きのトタンを使うことにしました。「時短」と「コスト削減」という、大きな意味もあります!それにしても、狭い所はとても大変そうでした。「寝返り打てない~!」嫌な顔一つせず、むしろ、とても楽しそうに作業を進める二人の姿が有難かったです。実はこの二人。今請け負っている仕事を終えて、沖縄の首里城の再建に携わることになっています。ここ平和資料室のオープンも沖縄に思いを馳せられるようにと6月を考えています。「戦争のことを忘れないように」と、先人が力を貸してくれているような気がしています。さて。二人が作業してくれている間、私はひたすら単管塗り。ペンキの入った入れ物を持つ手の感覚が無くなるほど、寒いです。腰も痛くなるし、辛くないと言ったら噓になります。でも、作業しながら、いろいろな人のことを思います。戦後、日中戦争に従軍した人(Hさん)、ビルマ戦に従軍した人(Oさん)、シベリヤに抑留された人(Tさん)、八幡空襲で焼け出されて雪が舞うような家の中で暮らした人(Sさん)、ウクライナの人々・・・極寒の中で、必死で生きた、生きている、生きようとした人たちのことを・・・「こんなこと、大したことじゃないわ!!」不思議と耐えられます。それよりも、『大軍拡』『大増税』をしようとしている今の日本政府の動きを考えると、戦中を生きた(生きている)方々に申し訳なくて、胸が痛くなります。・・・購入した時屋根の増幅後抑止力になるからと軍事力を増強することが、決して国民を守ることにはならない。ということに気付く場所をつくりたいと、切に願います。1月29日現在大雨が降っても、安心して作業ができるようになりました。ボランティア募集します!!●単管塗り●壁塗り●駐車場の防草シート敷き●メッセージの焼き付け寒いですが、よかったらお手伝い願います。といっても、今すぐできることは単管塗りとメッセージの焼き付け。090-4514-2365(小松)にお電話いただけると、日時や作業内容を調整したいと思います。どうぞよろしくお願いします。資料室の隅に植えた菜の花が咲いています