12月14日(水)。第2回目の中学生による戦争戦時体験者への聴き取り活動を行いました。コロナにより、延期になってしまった分です。先週、1回目の聴き取りを終えた時に、恐る恐る尋ねました。「コロナでできなかった分はどうしますか?」卒業を控えた中学生です。いろいろとやりたいこと、やらなければならないことがある事を知っています。でも、返ってきました。「聴きたいです。」ということで、急遽連絡を取り、設定しました。(残念ながら、炭坑での労働経験のある方は用事があり、またの機会に・・・)今回は、満州での生活経験のある小野さん(元北九州平和資料館館長)(87歳)と、海軍少尉の経験のある宮原さん(98歳)。実は私は、宮崎在住の友人が資料室に来たいというので、資料室へ。引率は教員時代の同僚Yさんと連れ合いに頼みました。(Yさんは、私が若松での空襲体験者を探している時に声をかけたことがきっかけで、宮原さんと知り合い、それからずっと『証言』を残そうと、聴き取りを続けておられます。)そういうわけで、小野さん宅へ同行した連れ合いの撮影ビデオを見せてもらいました。さすが!小野さんです。満州の地図を準備されて、今は使われていない言葉を分かりやすく説明しながらご自分の体験を話してくださっていました。・軍属の子どもとして・戦中は食べ物に困ることはなかった・戦後食べ物や燃料に苦労・引揚中に弟を亡くす・・・子ども達は、佐世保の引揚記念館にも行ったと聞いていたので、満州のことや戦後の引揚についても調べているのではないかと思います。(以前、「満州の本を読んでいます。」とも言っていました。)追究意欲の高い子ども達。表情の変化に、集中し、想像しながら話を聴いていることが分かりました。小野さんが話された後、子ども達からの質問タイムに。「学校ではどんな授業があったのですか?」「あ~!その話やったら!!」と、小野さんの声がはずみます。「日本の国がどれだけ立派な国か、どうして立派な国なのかをたたきこまれたね。『日本よい国 清い国 世界で一つの 神の国 日本よい国 清い国 世界に輝く えらい国』・・・。」「5年生では、歴代天皇の名前を覚えさせられたんよ。」そう言って、神武天皇からを諳んじました!子ども達は目を丸くして聞いています。「今で言ったら、『天皇 命(てんのう いのち)』よ。」『てんのう、いのち』に、ビデオを見ながら、思わず笑ってしまいました。『軍人勅諭(ちょくゆ)』も覚えさせられたと、またまた諳んじていく小野さん。・・・「木でできた銃を持って登校して、奉安殿で銃をこうやって立てて、『礼』をするんよ。その『礼』も角度とかが決まっとんよ。・・・」アサヒホームグラフより学校で行われた「体育(訓練)」の様子や先生の指導など、具体的なお話に、「戦争できる子ども(日本人)作り」の様子が手に取るように分かりました。私は思い出していました。小野さんが、どうして人生をかけて平和活動をしてこられたのか。「私も軍国少年やったんよ。大人になったら海軍飛行兵になりたいと思っとった。戦争が終わって、大人になって、どうして戦争をしたのかを知った時、『自分も戦争に加担しとった』と思ったんよ。」子どもだった小野さんには、罪はないと思います。でも、小野さん自身は、『自分は関係ない』として生きることはできなかったのでしょう。小野さんが、テレビでユニセフのコマーシャル(栄養失調の幼い子どもの映像)になったら、チャンネルを変えるということは、初めて知りました。弟さんとの別れ。満州での体験。・・・80年近くもの時を超え、小野さんの人生をつくっているのだと、改めて思いました。ーーー今回のもう一人の証言者である宮原さんのお話を聴き書きしているYさんに、お礼の電話をした時に言われました。「こまっちゃん、私の方こそ、感謝してるよ。こんなことがなければ、戦争のことを知ることもなかったし、宮原さんとお話することもなかったよ。」「そう言っていただけて、私もうれしいです。私は、お年寄りから昔の話を聴くのが大好きなんです。人間のたくましさに気付くことが多いし、今の日常が『ありがたいなぁ~』って思えるんです。大変なことがあっても、『こんなことくらい大したことない』『まだがんばれる』とか思えるんです(笑)」私も残りの人生、これまでの人生を振り返りながら、歩んでいきたいと思います。
久しぶりの活動報告です。リターンの発送、お届けを九割方終えることができました。ご支援くださった皆様、発送準備の手伝いをしてくださった方、改めてありがとうございました。早く届けようと、できたものから封筒に入れて封をしていたのですが、途中で入れ忘れたものがある事に気付き、やり直し。そのうち、入れたか入れていないか、送ったか送っていないか。・・・大混乱!名簿にチェックしていたのに…。はぁ。郵送料を浮かせるために、私が届けているものもあります。まだ届いていないという方は、今しばらくお待ちください。もし、12月中に届かなかった場合は、ご連絡ください。若しくは、不備があるかもしれません。その際も、ご連絡いただけると幸いです。早急に対処させていただきたいと思います。さて。「子どもの村学園」の中学生による「聴き取り」活動のこと。実は、前にもお伝えしていた通り、11月30日に、第一回目の「聞き取り」活動を行う予定でした。が、直前になって、学校でコロナ感染者が出たため、あえなく中止に。(ショックでしたが、命には代えられません!)次の週の12月8日(水)。お二人の方(二人とも93歳)からお話を聴くことができました。お一人は14歳で志願して予科練(海軍飛行予科練習生~航空兵養成制度。つまり、飛行機に乗る練習をする)に入った篠原さん。終戦間際に「伏龍」(後述)の訓練地へ。お一人は、若松区に住んでおられて、疎開を経験し、若松空襲を見た大嶋さん。コロナのことを考えると、狭い資料室では心配です。そこで、事前に二つの市民センターで部屋を予約して、当日を迎えました。私は篠原さんのお話を聴くグループに。篠原さんは、当時の様子が分かる資料を持って来てくださり、大変分かりやすくお話してくださいました。子ども達といっしょに質問をしながら、興味深く話を聴かせていただきました。初めて知ることもたくさんありました!心に残ったことがたくさんある中で、篠原さんにしか話せない「切実な気持ち」をいくつか紹介します。●「戦後、野比海岸(「海中の人間爆弾」ともいわれる「伏龍」の訓練が行われていた場所。横須賀市にあります。)に行きましたよ。きれいな海で遊んでいる若者がたくさんいました。同じくらいの歳の若者が、片や命がけで訓練していて、片や遊んでいるんだからねぇ・・・昔、ここで、命を懸けて訓練していた若者がいたことを伝えないかんと思いましたよ。できたら、こういう話をつたえていただきたい。」●「当時は、国のために兵隊になって戦うのが当たり前だった。そんな中、学校の先生が志願を勧めて、僕は親に黙って志願したわけ。時代の流れだから仕方のないことだとは思うけど、せめて、戦争が終わって会った時に、『ご苦労さんやったな。』と、先生に言ってほしかった。」●「今日は、話を聴いてくれて、ホントにありがとう。うれしかったし、楽しかったです。学校に呼ばれて話すことがあるけど、『行事』という感じで、親身に聴いてくれないことがある。(でも、今日はちがった。)よく、『また昔の話をしてから。』って言われるますよ・・・。そんな時は、『僕はこれから先の話はしきらんよ。』って、言うんですよ・・・ホントに今日は、ありがとう。楽しかった。」人間特攻「伏龍」~RKB放送より~篠原さんは、終戦の日(1945.8.15)の2週間前くらいに命を受け、「伏龍」の訓練を行っていた横須賀市の野比海岸に移動になったのです。「伏龍」は、連合軍の日本上陸を阻止するために考えられた作戦です。海中に忍び、爆弾(機雷)で連合軍の船を突き、爆破させる。兵隊の命を利用した作戦というわけです。そこで篠原さんは、訓練中の事故で担ぎ込まれる兵隊をたくさん見ています。「『時代の流れ』だから、仕方がないと思うんだけどね。」時々、悔しそうに語気を強め、時に涙ぐみながら話してくださった篠原さんが、最後の方で何度も言われていました。私には、自分自身に言い聞かせているように感じられました。同時に私の頭の中に、16歳の篠原さんの経験(理不尽な体罰や厳しい訓練、戦後のバラック小屋での生活…)と今の日本の軍拡への急速な動きが浮かんできて、怒りにも似た感情がこみ上げてきました。「私は、『流れ』は自分達で作らないといけないと思っています。」私は思わず言ってしまいました。「あの時代は、『仕方がなかった』のかもしれません。でも、今は違います。民主主義の国に生まれ変わったのだから、自分達の力で、そうならないように、『時代の流れ』を作れるんです。作らないといけないと、私は思っています。だから、学ばなければならない。ちゃんと言わなければならない。私はそう思っています!」思わず、力を込めて、言ってしまっていました。見ると、いっしょに話を聴いていた2人の中学生も、私の方を見ながら大きくうなずいてくれました。視線を合わせ、力強く「うん、うん」とうなずいてくれる二人に、心地よさを感じました。今こそ 、戦争時代を生きなければならなかった人達の声に耳を傾け、本気で考え、行動する時だと、強く思いました。最後に、すばらしいハーモニカ演奏と、楽しい「おはなし」をしてくださった篠原さん。(お腹を抱えて笑わせていただきました!)私の中の「不撓不屈」の泉が深くなりました!!
11月26日(土)。小倉の町に出ました(笑)!平野塾で出会った渡辺さんからのお誘いを受け、北九州ESD協議会の「語り場・学び場」に参加。もともと、小倉の町に馴染みのない私。道行く人にバレないように、スマホをチラ見しながら、「北九州まなびとESDステーション」へ。(案内が終了した後、キョロキョロと探している姿は、どう見ても「おのぼりさん!」(笑)まさか、地下とは…)早乙女勝元さん。東京大空襲を経験され、その経験をもとに絵本「猫は生きている」を書かれた方。東京大空襲を記録することに力を注ぎ、戦時資料センターを立ち上げ、館長をされていた方。私の中では、「尊敬すべきすごい方」!今年、その訃報に、気を引き締めたことを思い出します。その娘さんが来られる!!さらに、重信館長(平和のまちミュージアム)さんのお話も聞ける!!会場には、すでにたくさんの方々が集まっていました。まず感動したのは、「年齢がさまざま」であること。閉館した「北九州平和資料館」に関わっている時は、この私が「若い人」で、「めずらしい」。多くが70~80代という感じでした。でも、「ESDステーション」では、おそらく20~60代。学生さん、若い先生も含まれていて、未来への希望を感じました。早乙女さんのお話も重信さんのお話も、私にとって、大変元気づけられるものでした。「切実さ」を原点として歴史を語ること。「命の重さ」を感じてもらうこと。自分が考えてきたこと、やって来たこと、やろうとしていることは間違っていない!そう思えました。私の中での歴史を語り継ぐ「切実さ」が目指すものは、「戦争をなくし、本物の平和をつくる」こと。だからそこには、「地球の歴史」「人類の歴史」「争いの歴史」「日本がした戦争の歴史」「人権獲得の歴史」・・・そして、「身近な地域の歴史」を学ぶことが必要なんです。「身近な地域の歴史」を学ぶ意味は、そこに「生きた人々」を感じるため。より「自分事」として感じるため。そう考えています。受験勉強をしていた頃、「歴史」という学習(いえ、授業?)が大嫌いだった私ができることは限られていると思います。壮大過ぎて笑いが出てきます。(笑)でも、今の私には歴史を学ぶことが、とても切実。平和資料室の展示にも、それを感じるものを入れたいです。充実した2時間の中で、すてきな人との出会いと共にすてきな本にも出会えました。絵を描かれた吉澤みかさんにサインもらっちゃいました!ほっこりしました。感謝。
11月24日(木)前々回の活動報告に取り上げた「子どもの村中学校」に行ってきました。本当は、水・木がプロジェクトの時間だということで、「毎週、資料室に来てもらえる!」と簡単に考えていたのですが、よく考えると、1時間以上もかかる所に、そんなにしょっちゅう来ることは難しいですよね・・・ということで、私の方から子ども達に会いに行くことにしました。ウクライナとロシアのことを調べて発表した時の発表掲示も見たかったし、「子どもの村学園」自体にも興味があったので。余談。小学校教員を退職して「何か」に紹介されていた「北九州子どもの村学園」。「私がしたかった教育だ!」なぁんて惹かれ、連れ合いに、「ここで働いてみたい!!」と言ったら、「また、バカなことを!」とバッサリ切られたのを思い出します・・・さて。この日は午後用事があったので、打ち合わせを終えたらとんぼ返りしなくてはいけませんでした。でも、せっかくの「憧れの場所」に行けるのです。有意義なものに・・・と、早めに伺うことにしました。久しぶりの平尾台。子どもが小さかった頃、何度も足を運んだことを思い出します。初めての卒業生とも「卒業旅行」として行ったことも・・・「子どもの村学園」の校庭に入ると、子ども達が作ったであろう「ジャングルジムのような、『基地』のような、木の造形物(遊び場?)が迎えてくれました。見るだけでワクワクします。(写真を撮り忘れたことが心残り…)さて。事務室が分からずうろうろした後、ようやく校内へ。思い出すと、「自由」「自然体」という言葉が浮かんできました。その空間で生きている「人」の声が、とても自然な感じて聞こえます。同時に鳥のさえずりも。そんな中で、子ども達の発表掲示のある 体育館へ。閉校した「新道寺小学校平尾分校」の体育館をそのまま使っているようで、その体育館の壁の3分の1くらいにぎっしりと模造紙が貼ってありました。「たった5人で、よく書いたなぁ~。」と、まずはその量に感心。そして、じっくりと読みながら、その内容の濃さにさらに感心。恐らく、調べながらどんどん知りたいことが出てきたのでしょう。ホントに丁寧に、深く調べられています。だれにでも分かるようにという配慮もあり、私自身勉強になりました。そして何よりも感心したことは、その内容が、偏っていないこと。双方の国の立場で考えようとしています。また、「ウクライナの難民のこと」「ロシアの人たちの声」、侵攻を始めた「プーチンさん」のことさえも人として良い所を見つけようとしているというように、「生きている人」を思う気持ちを感じるまとめだということでした。子ども達の感性に、涙が出そうでした。大人は何をしているんだ!!と、怒りさえ沸き上がってきました。平和は、相手(自分と違うあらゆる他者)を分かろうとするところから始まるのだと、子ども達が教えてくれていると思いました。「相手を理解する」には、話(コミュニケーション)をすることが必要。武装するのではなく、外交努力をすることが、平和をつくるのだと強く思いました。次世代を生きる子ども達の声を、「まだ子どもだから」と軽んじるのではなく、一人の人間の意見として真摯に聴き、生かすことが、私たち大人が未来のためにできることではないでしょうか。来週から「聴き取り」活動を始めます。楽しみです。おまけ。トイレの中に貼ってありました。用を足しながら思わずパチリ。子ども達の感性に触れ、人間のすばらしさを思いました。トイレから出る時、思わずスリッパに「ありがとね。」と言って、きれいに並べました。(^^♪
11月19日(土)・20日(日)と、小倉北区の清水市民センターの文化祭「平和を祈って」で、平和資料室の資料を展示させていただきました。館長さんからは、「北九州平和資料館」が閉館する前の7月だったか、「文化祭で展示したいので、資料を貸してもらえないか」と、連絡をいただいていました。館長さん自身、戦争のことを知ろうと、できるだけいろいろな所に足を運び、学んでいる最中だと、お話してくださいました。「平和を守りたい」「もっと多くの人に知って、考えてもらいたい」という強い思いを感じました。「多くの方に見てもらえるのなら、喜んで! 私が運ぶのでご心配なく!!」しかしながら、箱にしまわれている戦時資料。〇〇は、どこにしまったっけ?説明はどこに入れたんやったっけ?と、探すのが大変!!閉館時。こんなことにならないようにと、計画的にしまう準備をしていたのですが、次々に資料が出てきて、それどころではなくなったことを思い出します。「仕方ない!整理するつもりでやろう!!」狭い部屋なので、引っ張り出すのも大変でしたが、思い切ってやってよかったです。だいぶ分かりやすくなりました。また、新しく加えたい説明などもはっきりとしてきました。 写真を撮り忘れて帰ってしまった私に、館長さんが、わざわざ写真を送ってくださいました。「200人越えの参加で、来られた方は皆さん、展示を見られていました!!」と、感激のお電話もいただきました。前よりもきっと、平和を願う人々の思いが強く、大きくなったと信じています。