日本の現状を国連に伝え、障害児も普通学校に通うのが当たり前の日本にしたい

障害があっても、障害のない子と同じ教室で過ごす権利が、国連の障害者権利条約で認められています。この夏、条約を守っているかどうか、国連が日本を審査します。日本の教育が変わるきっかけとなる審査結果を出してもらえるよう、私も国連に行き、審査委員に直接、分離的な環境で学ぶ障害児が増えている現状を訴えます。

現在の支援総額

1,381,500

321%

目標金額は430,000円

支援者数

154

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2022/07/14に募集を開始し、 154人の支援により 1,381,500円の資金を集め、 2022/08/14に募集を終了しました

日本の現状を国連に伝え、障害児も普通学校に通うのが当たり前の日本にしたい

現在の支援総額

1,381,500

321%達成

終了

目標金額430,000

支援者数154

このプロジェクトは、2022/07/14に募集を開始し、 154人の支援により 1,381,500円の資金を集め、 2022/08/14に募集を終了しました

障害があっても、障害のない子と同じ教室で過ごす権利が、国連の障害者権利条約で認められています。この夏、条約を守っているかどうか、国連が日本を審査します。日本の教育が変わるきっかけとなる審査結果を出してもらえるよう、私も国連に行き、審査委員に直接、分離的な環境で学ぶ障害児が増えている現状を訴えます。

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「頭ではインクルーシブ教育がいいと分かっているのに、自分は普通学校に通えてよかったと素直に思えないのは、私が偏屈だからかな。」大学院時代、インクルーシブ教育を研究したいと思っているくせに、自分の子ども時代を思い出すのが苦しかった時、そんな自問自答をしていました。大学院退学後、東京インクルーシブ教育プロジェクトの仲間と、障害者権利条約の「一般的意見第4」を読む機会がありました。条約の審査機関である障害者権利委員会が、条約の定める「インクルーシブ教育の権利」をより詳しく解説したものです。そこでは、インクルーシブ教育と統合教育は全く違うものだとし、こう説明してます。「統合は、障害のある人は既存の主流の教育機関の標準化された要件に適合できるという理解の下に、彼らをそのような機関に配置するプロセスである。インクルージョンには、……(通常学級の)教育内容、指導方法、アプローチ、組織体制及び方略の変更と修正を具体化した制度改革のプロセスが含まれる。たとえば組織、カリキュラム及び指導・学習方略などの構造的な変更を伴わずに障害のある生徒を通常学級に配置することは、インクルージョンにならない。」これを読んだ時、少なくとも中学時代まで、私が受けたのはインクルーシブ教育ではなく統合教育だったのだと気づきました。同じ学校に通っていたのに、知的障害のある生徒は他の生徒と違う教室でほとんどの時間を過ごしていたことが、当時の私に「自分も障害があるから、勉強まで出来なくなったら、みんなと一緒にいられなくなるのだ」というプレッシャーを与えました。私が先生に話しかけているのに、先生はすぐに介助員の方を向き、私の言葉を直接聞いてもらえない環境が、私の言語障害に対する劣等感を増大させました。知的障害のある生徒も、静かな別室で自分のペースで学習したいと本人が望んだ時以外は、同級生と同じ教室の中で、支援を受けながら過ごせるように、教室の環境や授業の在り方が工夫されていたら。私が先生に話しかけた時、聞き取れなかったら、先生が私に直接聞き返してくれるのが当たり前の環境だったら。当時の私はもっと安心して普通学級にいられたでしょう。私が受けたのは統合教育だったから、あんなに苦しかったのかと気づいたとき、障害があっても安心して同級生と同じ教室で過ごせるように、普通学校を変えていき、日本でも本当のインクルーシブ教育を実現できるようにしたいと思いました。これが、私がインクルーシブ教育の運動に力を入れる原点です。


クラウドファンディングの文章は、一旦、自分で書いたあと、ほにゃらの仲間や介助者に読んでもらい、「ちょっと長いかな」「タイトルはもう少し分かりやすく」など、アドバイスをもらい、何度か書き直したので、自分でもなかなかの力作だと思っています。その文章をただ今、英語に訳しています。私は言語障害もあり、ほとんど英語が話せないため、特に自分の今までの経験を英語に訳した文章を、国連の審査委員の方々に手渡しできれば、自分の想いを届けられるかなと考えています。ただ問題は、自分の英作文に自信がないこと。8年前、ボストンに留学していたときは、そこそこ得意だったのに、今は全く自信がない。誰か、私の英作文、添削してくれないかな~と思い、Facebookで呟いたところ、すぐに数人の方から「添削してもいいよ」と連絡をいただきました。ありがたい限りです。ぜひ、お言葉に甘えさせていただきます。たくさんの人との出会いで、自分はここまで来れ、たくさんの人のご協力で国連に行けることに改めて感謝しながら、精一杯ジュネーブで、伝えるべきことは伝え、たくさんのことを吸収して帰ってきます。ブログの英文を全部印刷するのは長いので、英文はホームページに公開し、QRコードを印刷したカードを審査委員の方々にお渡ししようか、検討中です。また完成したら、ご報告します。


昨日に引き続き、カナダのインクルーシブ教育事情を聞いた感想をつらつらと書きます。池野さんは、カナダのインクルーシブ教育の研究者シェリー・ムーアのYoutubeチャンネル「Five Moore Minutes」を引用しながら、インクルージョンという概念を改めて考えることを提案してくれました。インクルージョンというと、マイノリティの人たちをいわゆる「マジョリティ」と呼ばれる人たちから分離することなく、混ざり合って存在することという意味が強いですが、では、「マジョリティ」とは誰のことなのでしょうと。 それを聞いて、私はハッとしました。高校時代、学校の中ではっきりとした障害のある生徒は私1人だけで、自分の障害ゆえの悩みは誰とも共有することはできないと思っていました。しかし、今考えれば、現に同じクラスにトランスジェンダーの友人がいたし、もしかしたら同じ学校の中にLGBTQの当事者がもっといたかもしれない。障害のある家族がいたり、自分のルーツが外国にあったりして、誰にも言えない悩みを抱えている同級生もいたかもしれない。そう考えていくと、完全にマジョリティに属している人は実は1人もいなくて、みんな、それぞれの背景や悩みを抱えながら、同じ学校に通っていたのかもしれないと思いました。数え切れない多様性を持ち合わせた子どもたち一人ひとりが、同じ教室で自分らしくいられるように、学校の環境や支援体制を整えていくことが、インクルーシブ教育をつくることかもしれないと感じました。


先週末は、東京インクルーシブ教育プロジェクト(TIP)の仲間と一緒に、元TIP運営委員の池野絵美さんから、カナダのインクルーシブ教育事情についてお話をお聞きしました。池野さんは2年半前まで関東圏で教員として働いていましたが、インクルーシブ教育を学ぶため、今はカナダのバンクーバーに留学しています。バンクーバーでは、公立学校には特別支援学校や特別支援学級はなく、どんな障害があっても、他の生徒と同じクラスの一員として、学習に参加することが基本になっているそうです。支援が必要な子どもには、大学や教育委員会の養成コースを修了した専門の支援員が配置されます。池野さんのお話を聞いて、バンクーバーの学校の特徴で一番印象に残ったのは、学校の中で子どもたちに関わる大人が先生以外にもたくさんいることです。支援員はもちろん支援が必要な子に付きますが、その子の周りにいる同級生たちにも気を配り、困っていそうな生徒がいれば、特に障害がない生徒であってもサポートします。必要に応じて、理学療法士や言語聴覚士など様々な専門職が学校に来て、子どもたちと関わることもあるそうです。先生は授業を教えることが仕事であるため、休み時間などの子どもたちの見守りは教員以外のサポートスタッフに任せます。日本でインクルーシブ教育を進めようと考えると、学校の先生たちの負担が増えると思われがちですが、様々な障害のある子に対応するために、様々な専門職を学校に入れて、障害のある子だけでなく、すべての子どもたちを多様な大人がそれぞれの立場で支援していく形なら、インクルーシブ教育を進めていくことが学校の先生たちの負担軽減にもつながり、もっと余裕をもって子どもたちに関われるようになるのかなと思いました。


「普通学校」という言葉に違和感を持つ人もいらっしゃると思います。特別支援学校に通っている子どもたちにとっては、特別支援学校が「普通」だという考え方もあることも理解できます。市町村に1つもなく、他の市町村の学校に通う場合もある特別支援学校に比べ、それぞれの地域にある小中学校は「地域の学校」と呼んだ方が正確なのでしょう。しかし、私自身の子ども時代の中では「普通学校」と言うことが多かったたため、クラウドファンディングの中では「普通学校」と呼ばせていたきました。そして、日本の多くの地域では、障害のない子にとっては、家の近くの小中学校に就学するのが「普通」「一般的」で、学区の広い私立の小中学校に通わせるほうが「特別」だとみなされると思います。この場合の「特別」は、一般の小中学校とはひと味違う、その家庭の教育方針に合致したり、本人の興味関心に特化した学びを提供するという意味であり、いい意味の「特別」だと思います。障害児は特別支援学校に通うのが「普通」だと思ってしまうのは、本当は家から近い小中学校に行きたいのに、「受け入れてもらえない」とか「必要な支援が受けられない」という理由で、仕方なく家から遠い特別支援学校を選ばざるを得ない状況や、そもそも「障害があっても、家の近くの小中学校に通う権利がある」と教えてもらえないからではないでしょうか。どんな障害児も、障害のない子どもと同様に、家の近くの小中学校に通い、小中学校の中で必要な支援を受けられるのが「普通」で、家庭の教育方針や本人の興味関心に特化した特別な教育を受けさせたいから、わざわざ家から遠い特別支援学校に通わせるという認識になれば、特別支援学校の「特別」もプラスの意味に捉えられるのではないでしょうか。「なぜ障害があるのに、地域の小中学校に行くの?」ではなく、「家の近くの小中学校でも必要な支援は受けられるのに、なぜわざわざ家から遠い特別支援学校に行くの?」と聞かれる社会を作りたいです。


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