「インクルーシブ教育がインクルーシブ社会をつくる」頭では分かっているつもりだったが、じゃあ、障害のある私が普通学校に通ったことで、インクルーシブ社会に近づいたのか疑問に思っていた。もちろん、少なくとも中学時代まで、私が受けたのは統合教育で、そもそもインクルーシブ教育ではないのだが。 そんな私の考え方が変わったのは、今年に入り、高校時代の友人である間々田久渚が代表を務めるLGBTQ支援団体『ハレルワ』のオンラインイベントに参加した時のこと。その時、私の近くに介助者はいなく、ハレルワのイベントにも初めて参加したため、私が話しても誰も聞き取れないと思い、黙ってイベントを聞くだけにしようと思っていた。しかし、フリートークの時間になり、しばらくすると、「かわばっちも何か話してよ」という間々田の声がした。不意に高校時代のあだ名で呼ばれ、びくっとしたが、渋々、「今、介助者がいないから、通訳できないんだよ」と彼に言うと、「分かった」と一言。これで話さなくて済むと安心したのも束の間、次の瞬間、なんと彼は他の参加者に私のことを紹介しだした。「川端さんは私の高校の同級生で、脳性麻痺という障害があります。言語障害もありますが、何回か聞き直せば、聞き取れるので大丈夫です。」 私の紹介をし終えると、「…ということで、かわばっちも何か話してよ」と再び間々田の声。 「これは逃げられないな」と思い、私は渋々、自分の声で話し始めた。間々田は私の話に相づちを打ちながら、時々、他の参加者に私の話を通訳する。高校卒業後、10年以上会っていなかったことが嘘のように、彼は私の話を聞きとった。 専門知識はないのに、私の障害のことを何の躊躇なく他の人に説明してしまえること。言語障害を気にして話さない私に、余計な気を遣わずに「話してよ」と言ってしまえること。もし私が高校時代、特別支援学校に通い、間々田と同じ教室で過ごしてなかったら、私と彼が友人になることもなく、彼が言語障害のある人と当たり前に話せるようにはならなかったかもしれない。 海老原さんの言っていた「インクルーシブ教育はインクルーシブ社会をつくる」とは、こういうことだったのか。初めて、その言葉が自分の中でストンと落ちた気がした。そのことを真っ先に伝えたいと思った人は、その時はもうこの世界にはいなかったが。 海老原さんが伝えてくれたこと、今度は私が誰かに伝えられるかな。頼りなくてヒヤヒヤさせてしまうかもしれないけれど、笑顔で見守っていてくれると嬉しいなあ。
いよいよ、クラウドファンディング終了まであと4日、ジュネーブ出発まであと6日になりました。皆様のご協力のおかげで、昨日の時点で、127人の方々から111万円のご支援をいただきました。開始する前は、権利を主張することがなぜか良くないことに思われがちな日本で、「どんな障害があっても普通学校に通う権利がある」と言ったら、批判されることもあるかもしれない、介助者1人分の渡航費が集まればいいかなと思っていたのですが、始めてみると、予想を遥かに超える方々からご支援をいただき、私が伝えようと思っていることは間違いではないと改めて確信すると同時に、こんなたくさんの人が賛同してくださっている想いを、きちんと国連の審査委員の方々に伝え、どんな障害があっても普通学校に通うことが当たり前の日本になるために、ジュネーブから帰国後も、私のできることをやり続けなければと、身の引き締まる想いです。当初の目標だった介助者2人分の渡航費は、お陰さまですでに達成いたしましたが、介助者2人と私自身の渡航費を含めた129万円まで、あと18万円です。挑戦終了まであと4日。これまでの皆様のご協力に感謝するとともに、今一度、お知り合いへの情報拡散のご協力、よろしくお願いいたします。
「インクルーシブ教育がインクルーシブ社会をつくる」海老原さんがいつも言っていた言葉だ。大人になって、街中で障害者に会ったとき必要以上に戸惑ったり、「障害者はいない方がいい」と思ってしまうのは、子どもの頃に障害のある友達と関わった経験がないからだという。 頭ではその通りだと分かっていた。大学卒業後、初めてほにゃらの事務所に行った時、私自身が他の障害者とどう関わっていいか分からなかったのは、子ども時代に自分以外の障害者と話す経験が全くなかったからだ。もし、どんな障害があっても普通学校・普通学級に行くのが当たり前で、同じ学校に私以外にも色んな障害のある生徒が、障害のない生徒と混ざり合っている環境だったら、普通学校でも自分以外の障害のある子どもに会うことができ、「自分以外にも障害のある人が近くにいて当たり前」という意識が、ずっと普通学校で過ごしてきた私の中にもできただろう。(続く)
海老原さんと一緒に活動する中で、中学時代の自分が介助員から虐待を受けたのは、自分が普通学校に通ったからではなく、障害児の支援を、当時大学を卒業したばかりだった介助員1人に任せ、介助員が障害児との関係に悩んでいても、誰にも相談できない環境や、障害児が毎日、学校の階段から転がり落ちていても、誰一人、教員が異変に気づかない環境が悪かったからだと気づいた私は、自分の過去と向き合うことにした。そうすることで、同じ経験をする障害児が出てくるのを防げるのではないかと思った。 でも、そのときの私は、中学時代の介助員や担任のことを気にするあまり、当時の経験を公にしてもいいのか迷っていた。TIPの他の仲間からは「自分を傷つけた人のことをなぜそこまで気にするのか」と叱られたこともあったが、海老原さんは何も言わずにただ見守ってくれた。 そして昨年夏ごろから、偶然、色んな機会が重なり、私は中学時代に受けた虐待について、色んな所で話すようになった。(海老原さんが亡くなってから聞いた話によると、私が中学時代の虐待について話すようになった1つのきっかけを作ったのは、まさかの海老原さんだったらしいが。恐るべき策士(笑) もう自分の経験を全て公にし、もう二度と同じ経験をする障害児が出てこないようにするために、自分の経験を活かしていこうと決意し、そのことをFacebookで書いたとき、海老原さんから「よく生きてきた。舞ちゃん、大好き」というコメントをもらった。短いコメントだったが、とても嬉しかった。 これからはもっとインクルーシブ教育について深い話を海老原さんとできるといいなと思っていた矢先に、海老原さんの訃報が届いた。(続く)
私がインクルーシブ教育を語るうえで、欠かせない人がいる。インクルーシブ教育とは何か、権利とは何か、私に教えてくれた人。去年のクリスマスイブの夜に天国へと旅立った海老原宏美さん。 私が海老原さんと初めて会ったのは5年ほど前。人工呼吸器から出る空気の音とともに聞こえてくる、軽やかで優しい、でも時々鋭いその言葉に、私は惹きつけられた。自立生活センター東大和の理事長で、普通学校に通う障害児の支援もやっていると話す海老原さんに、「自分もインクルーシブ教育に興味があるが、自分は普通学校でつらかったことが多く、障害児が普通学校に通うのは本当に良いことなのか分からない」と話した。そんな私に、海老原さんは「今度、私の活動を見においで」と誘ってくれた。 数か月後、東大和の事務所を訪ねた。私はすぐに海老原さんの活動に惹きつけられ、いつの間にか、海老原さんが代表を務める東京インクルーシブ教育プロジェクト(TIP)に参加するようになり、いつの間にかTIPの運営委員になっていた。海老原さんには人を惹きつけ、人と人をつなぐ魔力(?)がある。 海老原さんは、いつも「どんな障害児にも普通学校に通う権利がある」と言っていた。当時、「権利」という言葉に固く重苦しいイメージがあった私は、「権利って何だ?」と思っていた。TIPの仲間と一緒に権利条約の一般的意見第4号を読んでいるとき、難しい言葉が並んでいたが、海老原さんは1つ1つ丁寧に解説してくれた。「どんな障害があっても、合理的配慮を受けながら、普通学校に通う権利があるんだね。」その軽やかな口調で、「権利」という言葉を何度も何度も当たり前のように聞いているうちに、「権利ってそんなに難しいことではなく、他の人が当たり前にやっていることを障害者も当たり前にできるということなんだな」と理解した。 統合教育とインクルーシブ教育の違いを教えてくれたのも海老原さんだ。「そのままの普通学校に障害児を入れるだけではダメで、どんな障害があっても過ごしやすいように、普通学校の環境を変える必要があるんだね。」海老原さんの言葉が、私には「舞ちゃんが普通学校でつらっかたのは、舞ちゃんが悪かったのではなく、舞ちゃんが過ごしやすい環境に普通学校が変わらなかったのが問題だったんだよ」と言ってくれているように聞こえた。これが、私が自分の子ども時代を肯定できるようになっていくきっかけだった。(続く)